いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はブログでもTwitterでも何度となく書いているように、このブログを開設当初「自分は孤立する」と考えていました。
誰も見ないと思っていましたし、どうせ孤立するだけなら、本当に「気楽に」書こうと考えてブログのタイトルにしました。
私は非活になって当初、池田大作氏を批判することを躊躇いました。
活動家時代に自分は師匠と呼んでいましたし、そのように考える創価学会信徒さんはたくさんいることもわかっていたからです。
けれど、私はその点を総括して否定しなければいけないと感じました。所詮私が池田大作氏を絶対視して師匠と仰いだところで、そんな論理は会内にしか通用しない理屈でしかないからです。
そのような精神的な頸木を外して、虚心坦懐に池田氏の実像を評価した時、何が残るのかを検証したかったんですね。
その結果、池田氏の思想に何か後世に残すべきエレメントがあるなら、それを定式化し、後世に残していくことこそ、後に続く人間の責任であると思ったからです。
その定式化に一定の普遍性があるなら、池田大作氏の思想はきっと後世に残るでしょう。今のままでは単に否定されて消えていくだけだと考えました。
そこでいろいろ著作を丹念に読み出しました。
やったことは池田大作氏の思想から日寛由来の教義、他者由来の教義を全部洗い出し、残る本質として何が残るのかということでした。
私の結論は「何も残るものがない」ということでした。
トインビー対談における池田思想は、単なる生命倫理という観点から湛然由来の日蓮教学を日寛解釈で現代的に敷衍したものに過ぎません。確かにそれが平易に語られているという側面は評価できますが、そこにあるのは日寛由来の教義の現代的な敷衍と応用でした。つまりトインビー対談の池田大作氏の思想を真に知るためには日寛を学ぶ必要があることになり、池田氏に思想的なオリジナリティがあるわけではないのです。
彼らは自分たちの原理や自分たちの理想とする教団指導者をきちんと検証できません。彼らの精神構造は誰か他者を悪と規定して、自分のように考えない者たちを否定することしかできないのです。
私はそのような池田擁護は決して池田大作氏本人の評価のためにはならないし、対外的にも決して信用されないと思いました。所詮内側の論理で敵を作って自分たちの虚像を守りたいという擁護的な姿勢にしか世間には映らないからです。
そのような考えから自分なりに池田大作氏の思想を考えた結果、残るのは日寛由来の教義、そして生命倫理と生命至上主義、そして「親孝行」等の語に見られる儒教的な倫理規範でした。どれもこれも池田氏独自の思想と言えるものではなく、池田氏の思想を学ぶためには日寛を学べばよいということになろうかと思います。
では思想面で評価し得ないなら、外交的な行動を評価すべきではないか、そうも思いました。
2003年1月の提言では、イラクのフセイン政権下に「大量破壊兵器」が存在することを脅威と捉え、その「恐ろしさ」を「理解できる」と述べています。しかしながらイラク戦争後、わかったことは大量破壊兵器は存在しないということでした。そのことについても池田氏もまた信濃町の原田会長ら執行部と同様、明確に過去を総括したとは言い難いでしょう。
対外的に池田思想を残すというのなら、きちんと実像を伝えることです。
「私はこう思う」ではなく、具体的に何を述べたのか、何を言っていたのか、それらをきちんと知り、総括することです。
池田個人を無謬とし、それを「信じる」とするなら、単なる個人崇拝となんら変わりはありません。それでは大石寺の欺瞞教義への盲信となんら変わらないのです。
私はそんなことを考えてブログを書いてきました。非難されても罵詈雑言を言われても構わないと思っていました。私は私の信じることをするまでですし、私は非活となり、別に宗教指導者としての池田氏も必要だと思っていません。
仏教は師弟ではありません。仏教で師弟が重視されるのは師子相承の概念を重視する密教です。そしてその密教思想における師弟概念の濫觴は、ウパニシャッド思想です。例えばチベット密教には師弟という概念が現代でも色濃く残されています。しかしそれらは元来ウパニシャッド思想に存在したもので、仏教の本質でも何でもありません。
孤立することを選んだはずなのに、なぜか多くの方から激励の声を頂きます。ありがとうございます。
私は検証もなく一面的な思い込みや希望的観測で何かを正しいと他者に強要する態度を決して認めません。
正しさは普遍的なものでさえありません。
ジョン・ロールズは社会を規律する正義の論理は、他者と共存するための相互の合意によって成立するものと考えました。
正義とは自分たちの無謬性を否定し、相互の合意によって構成されなければならないものだと私は思います。