気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

自身で読んで考える。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私のブログのある読者の方が、「気楽非活さんに何かを強制されたことはありません」と書いていたことがありました。


私も何かを読者に強要する気はありません。


私自身は日蓮から少しずつ離れ、龍樹思想から止観の意味を考えようとしていますが、それはあまりに個人的なことなのでブログには詳しくは書かないようにしていますし、それが私にとっての真実であったとしても、他者にとって必ずしも正しいとは考えていません。


私がブログで気をつけて書いているのは、冷静な史料の提示と、そこから導き出されることです。
それら史料の客観性についてどのように考えるかは自由です。が、書かれたものは動かせないはずですし、ましてそれが信用性のある一次史料なら尚更のことです。


創価学会大石寺系教団信徒の問題点は、読みもしないし、知りもしないのに批判することです。
まず冷静に史料を読み解き、その上で導き出される結論とは何なのかを考えれば、自ずと異なる宗教間でも一定の結論を得られると思います。
その上で自分たちが過去に信じて来たことが誤りであったのなら、それを総括して乗り越える勇気を持てば良いだけのことなのです。


日蓮が天台の五時八教判を根本に他宗批判を展開したのは、彼が最澄の精神的な後継を自覚していたためですが、それらは誤りであったかと思います。単なる漢訳経典の字面から成立年代を確定する作業というのは、現代の文献学においてはほぼ無効ですし、事実、多くの漢訳経典が釈迦の滅後の成立であることは現代では周知の事実です。
もちろん日蓮自身は時代的な制約もあったわけですから、その点について日蓮が批判されてもそれは致し方ない部分もあろうかとは思います。
けれどもそれなら現代における日蓮の限界と有効性について、どのように一次史料や文献から考えるのかということです。




また日興や日道の文献を読めば、彼ら門弟に日蓮を本仏とする説は書かれていません。日興は事実『三時弘経次第』で比叡山を迹門寺とし、それに対して富士山を本門寺とする中で、その本仏を「久成釈迦仏」と表現し、その付属の弟子を「上行菩薩日蓮聖人」と表現しています(『日蓮正宗歴代法主全書』1-43)。また大石寺4世日道は『三師御伝土代』において日蓮の「本地」を「日蓮聖人者本地ハ是レ地涌千界上行菩薩ノ後身也」としています(同253)。どこにも「本地が末法の本仏」だとか「本地が自受用報身如来」などとは書かれていません。




つまり書かれたもの、動かさない史料から導き出される結論とは何なのか、ということです。
それをどう判断されるのかは、賢明な読者の皆さんにお任せしますが、教団の論理で何かを考えるのではなく、自身で読んで結論を出すことこそが最も大切なことかと私は思います。