気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

宗教者の使命としての自己批判。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて私のブログ執筆のスタンスは、史料や文献から動かせない事実を抽出するという作業です。
それによっていかに自分が欺瞞な虚飾の教義や教団を信じていたか、またいかにそのような宗教幹部や指導者の虚像を信じていたのかを明らかにしていくことに主眼が置かれています。


創価学会大石寺系教団の人たちは、どこかでそれができなくなっている人が多いように思います。
例えば日蓮そのものも私はここで批判しますけど、やはり日蓮を再評価するなら、日蓮自身の限界もきちんと見定めた上で「ではどの部分が有効なのか、普遍性があるのか」ということをきちんと検証する必要があるように思うんですね。


例えば教団指導者としての牧口常三郎戸田城聖、そして池田大作氏も私はここで信濃町の原田会長らとともに同様に批判しています。
どんなに取り繕ってみたところで、大石寺系教義を絶対視する牧口、戸田の思想、また日寛教学をベースとする池田氏の生命至上主義には、もはや限界があり、その実際の思想の限界を見定めないことには再評価もできないかと思うんですね。


その上で、例えば池田大作氏なら、彼の思想上の限界をきちんと検証し、その上で批判すべきは批判して、何をどう再評価すべきかということを提示することが必要かと思います。
それもしないまま、池田大作氏が言ったから正しいんだとか、牧口氏は正しいはずだとか、戸田城聖は絶対だとか信じたところで、外から見れば検証もしないまま、事実を認めない単なる盲信としか映らないはずです。


日蓮道元法然のような鎌倉仏教の始祖もそうかと思いますが、彼らの時代的制約は何なのか、彼らの限界とは何で、再評価するためにはどうあるべきなのか、それを考え、一定の答えを出すことこそ本来宗教者の使命かと思います。


どこかで思考停止をしてしまって、批判できないものが存在するとするなら、それこそ単なる宗教的なドグマであり、それこそ徹底的に批判されるべきかと思います。
そこに批判の目を向けずに他者を批判するなら、所詮その人は自分たちの教義を絶対視する創価学会大石寺の教団幹部の論理となんら変わるところなどありますまい。