気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

論点を逸らす狂信的な態度。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私はこんなブログを書いて、創価学会大石寺を批判していますが、別段大したことを書いているという自覚はありません。
ですから、読者の方がどのようにこのブログを利用されても構わないと思います。
さすがに剽窃とか盗用はご遠慮してほしいとは思いますけど、そんな盗用されるような大それた文でもありませんし。



で、このブログに書いてあることは、だいたいが文献や史料に基づいてなるべく淡々と書くようにしています。
「私はこう思う」というのをぶつけ合ったところで、宗教間の対話というのは単なる水掛け論になってしまうことを、私は経験上よく知っているつもりです。
だからこそ客観的な史料に基づいて語る、文献に基づいて語るという基本線は守っていきたいと考えます。


ところが、大石寺新参講の法華講信徒さんや創価学会の活動家さんは、このブログに書かれてあることを少しでも述べると途端に嫌な顔をします(そもそも十四誹謗の8番目は顰蹙と言って彼らの教義では顔をしかめることも謗法として戒められているはずなんですけどね・笑)。
そして彼らは話を逸らし始めます。論点をはぐらかして、質問に答えないようにするんですね。


この論点のはぐらかしは、創価学会よりもむしろ大石寺信徒さんの方がより巧妙です。
彼らは都合の悪い質問になると話をはぐらかして「ご住職様に伺うべきだ」とか「我々凡夫に深深の法門はわからない」とか「御本尊様は絶対です」とかわけのわからないことを言い出します(笑)。


そんなわけで、読者の方でどうしても創価学会大石寺信徒さんと議論になってしまい、避けられない場合は次のようにした方がよいかと思います。


・話を逸らさないように念を押す。
・話を逸らしたらその点をきちんと確認する
・対話の途中で論点を確認し、立場がどちらにあるのかを明確にする


まあ、それでも大石寺信徒さんは話をはぐらかしてきます(笑)。
彼らが創価学会を論難する時は散々「文証をだせ」と迫るのに、自分のところが「文証を出せ」と攻められると、まあ話を逸らすこと逸らすこと。
困ったものです。