気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

危うい累卵のドグマ。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて佐伯真光氏は以前、創価大学に宗教学部や宗教学の講座がない理由の一つとして、仏教学の基礎である批判的文献学を遂行すると、早晩、創価学会は信仰と学問の相克をもたらすことになることを指摘していました(『諸君』昭和46年10月号)。


つまり大石寺由来の教義が、非常に危うい累卵の上にあるものでして、それを調べあげられてしまうと、自己崩壊してしまうのかと思います。


大石寺の教義の根幹は戒壇本尊であり、自分たちが日蓮日興の正統であるという自覚なのですが、それらの根拠を否定されるような論に出会うと、耳を塞ぐか相手を罵倒することしかできなくなってしまいます。


そして大石寺系教団としての創価学会員もまた同じです。彼らはもはや元鞘の大石寺の教義すら持たず、恐らくは精神性としては池田大作氏の絶対視くらいしか存在しないのかと思います。
つまり「私たちはいつだって正しかった。そしてこれからも正しいのだ。」「なぜなら創価学会こそ広宣流布を進める唯一の団体だからだ。」という無言のドグマくらいしか宗教的確信を支えるものを持っていないんですね。


私もまた活動家時代、教団の内部の論理しか知り得ませんでした。その教団の内部論理、ドグマの中で生きてきて、そのドグマでしか外の世界を判断する評価基準を持たなかったんですね。お恥ずかしい話ですが。


昔、創価学会の少年少女部員会に参加した時、こんなことがありました。
女子部のお姉さんが進行役で、会が始まったのですが、いつも参加しないはずの小学生が参加していました。その子は勤行も題目もほとんど唱えたことがなく、会の最初の勤行中にも鈴の音を冷やかしたり、声をあげてお喋りしたり、やりたい放題でした。
あまりにやりたい放題をした結果、その女子部のお姉さんが泣き出しちゃったんですね。


まあ会の運営を邪魔するような少年部員の無作法ぶりもいかがなものかとは思いますけど、お姉さんもお姉さんで泣き崩れちゃうというのもどうかと思いました。
つまり自分たちのやっていることが正しくて、それ以外の論理に出会うと否定することしかできないということの裏返しかと私などは思います。


非活になって、私は教団の外側の論理を知りました。また文献的な検証を通して、自分の信じていた教義の浅はかさを知り、己のやってきたことを深く恥じました。
今の大石寺系教団の信徒さんに必要なことは、自身の思想の前提を問い直す勇気であり、その思想的陶冶の作業かと私は考えています。