気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

ユゴー『九十三年』「牢獄」の章より。




いつもみなさん、ありがとうございます。


私は学生時代、ヴィクトル・ユゴーの『九十三年』が大好きでした。
何度読んでも師匠シムールダンと弟子のゴーヴァンの牢獄での対決は、胸に熱いものが込み上げてきます。
今回はそのゴーヴァンの台詞を紹介したいと思います。創価学会員さんも大石寺系信徒さん、また公明党の方々ももう一度『九十三年』を読まれた方がよいと思います。



「やがてシムールダンが口を開いた。
『自然よりも偉大な社会を作りたいのか。わたしに言わせると、そんなものはとても可能じゃない。そりゃ夢だよ。』
『それが目的です。でなかったら、この社会など、なにになりますか? よろしい、自然の中に残っておいでなさい。野蛮人でいらっしゃい。タヒチ島は楽園です。ただ、この中にいては人間は考えない、という楽園です。野蛮な楽園より知的な地獄の方がずっとましではありませんか。いいえ、地獄も絶対にいやです。人間の社会であるべきです。自然より偉大な社会であるべきです。そうです、もし自然になにもくわえないというんなら、なぜ自然からぬけだすのですか?
さあ、ありのようにはたらくことに満足しておいでなさい。みつばちのようにみつを集めて満足していらっしゃい。女王ばちのように知的になるかわりに、はたらきばちのようにあいかわらず野蛮なままでいらっしゃい。しかし、自然になにものかをくわえるならば、必ず自然よりもずっと偉大なものになるでしょう。つけくわえるということは増加するということです。増加するということは大きくなるということです。社会とはつまり昇華された自然です。わたしが望むのは、みつばちの巣箱に欠けているすべてのもの、あり塚にはないすべてのもの、つまり、記念碑や、芸術や、詩や、英雄や、天才などです。永遠の重荷を運ぶのは人間の法ではありません。もうたくさんです、たくさんです、たくさんです。賎民や、奴隷や、徒刑囚や、永劫の罰を受けた人間など、もうたくさんです! わたしが望むのは、人間の一つ一つの属性が文明の象徴となり、進歩のひながたになることです。わたしが望むのは、精神に対しては自由を、心に対しては平等を、魂に対しては友愛を、ということです。たくさんです! もう束縛はたくさんです! 人間が作られているのは、くさりを引きずるためではなくて、つばさをひろげるためなのです。もう爬虫類のように地面をはいずりまわる人間などたくさんです。わたしが望むのは、幼虫がちょうに変貌をとげることなのです。みみずが生きた花になりかわり、羽をひろげてとびたつことなのです。わたしが望むのは……。』
ここで彼は言葉を切った。その目がきらきらと輝きはじめた。
くちびるはまだ動いていたが、話すのはやめてしまった。」
ヴィクトル・ユゴー『九十三年』下350〜351ページ、榊原晃三訳、潮文庫、1970年)



一人でも多くの方が自由な心を取り戻すためにも、ユゴーの『九十三年』は読まれるべきかと思います。