気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

一信仰者として求めていくだけ。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこのブログで創価学会等の大石寺系教団の批判をいろいろ書きますが、本音を言うとそんなに大したことを語っていると考えていません。


私は幸いにも、貧しい中で大学まで行かせてもらいました。
大学でいろいろ勉強しているうちに、大学院に行っていろいろまた勉強してみたいとも当時は思ったりしました。が、すぐに自分の才能の無さを痛感したものです。
私は大学卒業後、就職して働くことを選びました。


私自身は、大した学者でも研究者でもないことは自分がよく知っています。
例えばLibraさんのような学術的に高度な議論はできませんし、蓮の落胤さんのような鋭い文才もありません。運ちゃんさんの想学談林や崩れ去る牙城さんみたいに深く思索するようなタイプでもないです。


ただただ私は母や父と同じく、貧しい、何もない庶民だったんですね。
そんな中で、創価学会の活動をさせてもらっていろいろやってたことは事実です。


私は母と同じ貧しい名もない、ただの創価学会員だったに過ぎません。
最近は過分な評価を頂き、さまざまな方から感謝のメールや激励の言葉を頂きますけど、私はそんなに自分が偉そうに言える人間でないことをよく知っているつもりです。
ただもともと貧しい人間であった一人が、創価学会大石寺教義の呪縛から離れて、自由に考え始めただけのことで、その自由から思うことをただブログに書いているだけです。


Twitterでどなたかもご指摘されていましたが、私は基本的に自分が思うことと客観的な事実はなるべくわけて書くようにはしています。そのため、文献をできるだけ示して、普遍性のある議論になるように気をつけてはいるつもりです。


歴史学の基本なのでしょうけど、個人の解釈とか「私はこう思う」を主張し合っても、解釈は人によって異なるものです。だからこそ宗教的な議論では史料をただ客観的に提示し、その上で動かせないところから共通の基盤を作っていくしかないのかと考えています。


もちろん私は誰かと共通の基盤がもとより欲しかったわけでもなく、ただ単に自分の今までの人生を見直し、考え直してみたかっただけなんですね。


真実は一つではないし、固定化されたものでもありません。
どこかに正しい唯一絶対の法が存在するなんて単なる幻想に過ぎませんし、そんなものは釈迦の教えでもないと思います。
私たちはもっと自由に求めていく中で、信仰を確立していくべきだと私は考えています。