気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

依義判文こそ誤り。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて大石寺の狂信的な信徒さんは、戒壇本尊の相貌について、それが『御本尊七箇相承』の指示と異なるということ、また御座替本尊の相貌は戒壇本尊の相貌と全く異なること、等々の指摘を「お前は見たのか」と議論をすり替えてきます。


Twitterで他の方が言われていたのは「恐らくこの戒壇本尊の相貌の問題こそが日蓮正宗の急所なのでしょう」ということです。私もそう思います。


ところで具体的に書かれていることを否定されるなら、それが実際は具体的にどう書かれているのかということを示せなければなんら反論にはならないはずですし、それを示せないということは戒壇本尊の相貌のこちらの解析が正しいということを事実上認めていることと同義なんです。そのことがきっと信徒さんはご理解されないのかと思います。


ところで、書かれているものを基本に考える立場から見て、創価学会顕正会等、大石寺系教団の根本的な誤りの原因を、私は大石寺26世堅樹院日寛の「依義判文」の思想にあると考えています。


日寛教学では「依文判義」になってはならず「依義判文」で日蓮遺文や法華経を読むことを教えます。
つまり「本門の教主釈尊」と書かれていても、それは「末法の御本仏日蓮大聖人様」と読むのが正しいとするんですね。
私はこの日寛の思想こそが、最大の誤りであると思いますし、またこれらを総括しない限り、創価学会顕正会のような大石寺系の宗教団体がまた再び現れてくるかと思います。


いずれ大石寺にせよ創価学会にせよ、日本の超高齢社会の波にさらわれて、教団が瓦解していくことは火を見るより明らかですが、日寛教学を根底から見直さない限り、「私はこう思う」「私はこういう確信がある」と議論にならない議論をして、日蓮でも仏教でも何でもない信仰を主張される方はなくならないと思います。