いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は『日興跡條條事』を取り上げてみたいと思います。
以前にも書きましたように大石寺はこの『日興跡條條事』(真偽未決、偽書の疑い)を持ち出して自山の正統性を主張し、西山本門寺は『日代八通譲状』(真偽未決、偽書の疑い)を持ち出して自山の正統性を主張しています。このことはすでにブログでも書きました。
「日代八通譲状のこと」
「後継者は日目か日代か」
ところで『日興跡條條事』の中には次のような一節があります。
「日興充身所給弘安二年大御本尊日目◯◯◯◯授与之」
2、この文の後には「相伝之可奉懸本門寺」の9文字が存在するが、これは「他筆」によるとしている。
まずこの二点だけで、読者の方にはその信用性の低さがよくわかるかと思います。
次に私の個人的な疑問を述べてみたいと思います。
まず1点目として「日興充身所給弘安二年大御本尊」という表現は「日興が弘安2年に自身に賜った本尊」という意味にとることが十分にできるという点です。
大石寺側の論理で言いますと「弘安二年」は「大御本尊」と結合している連体と主張されたいのでしょうけど、素直に読んでも、これは「弘安2年に賜った本尊を日目に授与する」という意味にとることはなんら不自然ではないと思います。
事実、大石寺の『富士年表』でも弘安2年に万年救護本尊が日興に授与されていることが書かれていますし、このことは大石寺17世日精の『家中抄』でも書かれています。ですからここで書かれている本尊が実は「万年救護本尊」のことであると推論する方が返って自然かと思われます。
「万年救護本尊について」
「戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです。大変なものです。重たい。上はただ三寸そこそこの板ですけれど、まわりは丸木です。まん丸い木です。その丸い木を、前を削って板にしたにすぎません。」
戒壇本尊は、この丸木の板を削ってかまぼこ型にしたものを、台座に嵌めて安置する形になっていまして、それは吊り下げるものではなく、台座の上に置かれる形になっています。
もし日興在世中にこの楠木の丸木本尊として戒壇本尊が存在したのならば、それを「懸け奉るべし」と呼ぶことは些か不自然になるでしょう。
これを例えば半円柱の丸木として考えて、その重量を考えてみましょう。半径を32.5、円周率を仮に3.14とし、楠の1立法センチメートルあたりの比重を0.52グラム程度で考えてみると、どう計算しても戒壇本尊の重量は百〜数百キログラム程度になります。
そんな重量の本尊があったとして、それを日興が本門寺に「掛け奉るべし」と相伝するものでしょうか。とすると、弘安2年に賜ったとされる本尊は紙幅のものであり、丸木本尊について言及されたものではないと考えた方が推論として自然かと考えます。