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「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」
「戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」
「『御本尊七箇相承』から考える」
「『七箇相承』の書くべし」
戒壇本尊は相貌がまずもって『御本尊七箇相承』の指示と相違していますし、不自然な点が多いですね。
次に御本尊両肩に書かれるはずの湛然の言葉である「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」が存在しません。
ちなみに『御本尊七箇相承』では「上行・無辺行と浄行・安立行と毘沙門との間には、若悩乱者頭七分・有供養者福過十号と之を書くべし」と書かれています。
文明14年(1482年)に小泉久遠寺他と大石寺との問答を記録する『大石寺久遠寺問答事』では問答が「大石寺本尊堂」で行われたことが記録されています(富要9-53)。しかしここでは戒壇本尊について全く言及されていません。つまり1482年までまだ戒壇本尊は存在しなかったと考えた方が自然かと思います。
「本門戒壇本尊」という語が最初に出てくるのは大石寺14世日主(在位1573〜1596)の『日興跡條々事示書』です。ここから考えて戒壇本尊の後世の最初の創作時期は恐らく16世紀後半、日主の周辺ではないかと考えることができます。今まで大石寺の歴史で文献に全く出てこなかった「戒壇本尊」の文字が14世日主になって突然出てくることは非常に不自然ですし、不可解です。