気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

後世の贋作に過ぎない弘安2年戒壇本尊。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて弘安2年戒壇本尊が後世の創作であり、日蓮の作ではないということは、このブログで度々指摘させて頂いています。


「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」

戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」

「『御本尊七箇相承』から考える」

「『七箇相承』の書くべし」




戒壇本尊は相貌がまずもって『御本尊七箇相承』の指示と相違していますし、不自然な点が多いですね。


まず戒壇本尊には、日蓮真蹟本尊なら必ず記載されている年号の干支が存在しません。
日蓮は必ず干支を書いたことは、残された真蹟本尊から明らかです。しかしそれが戒壇本尊には存在しません。


次に御本尊両肩に書かれるはずの湛然の言葉である「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」が存在しません。
ちなみに『御本尊七箇相承』では「上行・無辺行と浄行・安立行と毘沙門との間には、若悩乱者頭七分・有供養者福過十号と之を書くべし」と書かれています。
大石寺の相承で「書くべし」とされるものが、根本の戒壇本尊に書かれていません。



そもそも戒壇本尊は日蓮遺文中に全く言及されていません。さらに言えば日興も「戒壇本尊」という語には言及されていません。日道の『三師御伝土代』にも戒壇本尊への言及はありません。
文明14年(1482年)に小泉久遠寺他と大石寺との問答を記録する『大石寺久遠寺問答事』では問答が「大石寺本尊堂」で行われたことが記録されています(富要9-53)。しかしここでは戒壇本尊について全く言及されていません。つまり1482年までまだ戒壇本尊は存在しなかったと考えた方が自然かと思います。


「本門戒壇本尊」という語が最初に出てくるのは大石寺14世日主(在位1573〜1596)の『日興跡條々事示書』です。ここから考えて戒壇本尊の後世の最初の創作時期は恐らく16世紀後半、日主の周辺ではないかと考えることができます。今まで大石寺の歴史で文献に全く出てこなかった「戒壇本尊」の文字が14世日主になって突然出てくることは非常に不自然ですし、不可解です。