気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

気楽に書きたいという願い。







いつもみなさん、ありがとうございます。




さて私は創価学会大石寺も両方をこのブログで批判しています。



私は活動家時代に自身もまた大石寺の信徒さんに罵詈雑言を浴びせていました。罪深い人間です。同時に大石寺信徒の活動家さんも創価学会員を口汚く罵っていたのをよく見て知っています。


私は自分の研鑽から、自身の姿勢を反省し、淡々と書きたいとこんなブログを始めました。
そんなわけで、私は孤立すると思っていましたし、たくさん非難中傷も殺到するだろうと考えていました。


案の定、批判とともに非難中傷も、さらには脅迫まがいの言葉も届くようになりました(笑)。
私としては孤立しても別に構わないから、淡々と自分の考えたことを根拠を示しつつ書いていきたいと思ったんですね。


ところが豈図らんや、それ以上にいろんなブログやSNSで取り上げてもらい、評価してくださる方が増えました。
こんな罪深い私の書くことを評価してくださり、さらには「感謝します」とか「もっとたくさん書いてください」とか「気楽さんのお陰で目が覚めました」とか「今までのどのブログよりも素晴らしい」と、望外の賛辞まで頂くようになり、とても嬉しかったです。心から感謝しています。


私は頭の悪い人間です。そのことは自分が一番よく知っています。
ブログを始めることを最も躊躇していた理由が、自身の研鑽の浅さ、頭の悪さでした。
私は物分かりが悪く、すぐに理解できないこともたくさんあり、また日蓮教学やら仏教一般に関して専門的に学んできたわけでもありません。


ですから、私は本当に「気楽に語りたい」と思って、ブログのタイトルに「気楽に語ろう」と銘打ち、淡々とマイペースに書き出したのです。私は私のように考える学会員さんが少しでもいたら面白いかもしれないとは思いましたが、むしろ評価されることより孤立することを危惧していました。それでも自分が今まで思ってきたことをどこかに書き残しておきたいと言う思いの方が強かったのです。


ブログに書くよりも、誰か若いメンバーに私の思うことを伝えて勉強会でも開けたらいいなぁとは思ったこともあります。が、青年層の減少により会う機会も減り、私もやがて非活になりました。
父も母も亡くなり、遠戚関係とも縁遠くなっていたことから、誰にも話せない日々が続きました。
私は非活になってから、創価学会の活動で失っていた時間を取り戻し、たくさん本を読んだり自由に友人たちと遊びに行くことも多くなりました。財務もしなくなり、お金も自然と貯まるようにもなりました。今まで以上に仕事も楽しくできるようになりました。


ただ一点だけ、かつての創価学会の活動家だった頃の記憶だけが残っていました。
自分がやってきたことは他者を罵詈雑言で貶したり、非常識な勧誘をして聖教新聞の営業やら選挙のお願いをしたり、セミナーに誘ったりしたことです。
自分が間違っていたことを認めて全然構わないと思いましたが、さてどこがどのように間違っていたのか、全部をきちんと整理して書いて残しておきたかったのです。


私はここでいろんなことを書いていますが、信仰から離れたわけではありません。日蓮の教えからは少しずつ離れてきていますが、本来の仏教を学び、本来の釈迦の教えとは何かを考えて信仰をしています。その内実はここで詳しくは書きません。


私よりも優秀で優れたブログの書き手さんがたくさんいることも私はよく知っています。
その方たちはきっと私がわからないことも理解しており、私よりもはるかに高度な議論を展開し、高次な結論を提示できるのかもしれません。それならそれでも構わないと思います。その時、私のブログは忘れ去られるだけですし、それならそれでも構わないと思っています。


要するに私の願いは、私と同じように自由に考える人がたくさん増えて、自由な信仰者が増えることなのです。そして若い方にはぜひ自由な発想をもっていろんな議論を展開してほしいと願っています。


私が広宣部・言論企画局で対法華講顕正会の勉強会を始めたのは、私がまだ20代の頃です。
勉強し続けるうちに、さまざまな疑問がわき、赴くままにいろんな文献を読むようになりました。
私は若い頃、自由に思索したいと考えてはいましたが、私の場合はあまりうまくいかなかったようです。事実、非活になったのは青年部を卒業してからのことですし。


私が読者に願うのは、他者を敵にして、悪者を仮定し、それらを罵詈雑言で非難中傷するだけの浅はかな信仰者になってほしくないということです。
池田氏を絶対視して原田氏や長谷川氏を悪し様に罵るだけでは、所詮大石寺の論法とさして変わりません。


池田氏もまた批判されるべきですし、大石寺もまた批判されるべきです。
例外もなく、全てを虚心坦懐に批判して乗り越えるべきなのかと思います。
何かを悪者にして、自身を教団の被害者として、自己正当化をしようとするのは人間の弱さの表れですが、私はその立場に与しません。
このブログで私が批判しているのは大石寺創価学会ですが、それは同時にそれらを過去に絶対視していた過去の私自身への批判でもあるのです。


私は私を絶対視してはいません。
パブロ・カザルスは「人間というものはいかなる定義づけもするりとかわしてしまう」と述べていましたが、人間は変わるものです。過去の自分が変わったのなら、その変わった責任は自身にあるはずです。私はそこから逃げないで書いていきたいと思っています。