気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

概念・方便としての仏名。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて私は「仏」というものを、信仰者が誠意ある信仰者として生きるための「方便」であると考えています。その意味で仏は概念でしかないと言うのが私の考えです。


龍樹(ナーガールジュナ)は『中論』を著して、釈迦の悟りの領域を言語で表現することの不可能なところまで問い詰めてしまいました。
しかし彼は『十住毘婆沙論』を著して、諸仏への称名念仏を信仰者として確立していくんですね。


これは絶対的な矛盾です。



龍樹といえば『中論』がクローズアップされることも多く、彼を言語哲学者として思想家として評価することもよくわかります(私も事実そうですから)。
ところが、『十住毘婆沙論』の龍樹は違います。「空」を追求したはずの龍樹が言語を駆使して、言語の及ばない悟りの入口に辿り着いた時、彼は仏のことを思い、その名を称えるところから始めるんですね。


『毘婆沙論』の易行品では、退転の菩薩が阿弥陀仏をはじめとする諸仏の名号を聞き、その名を称え、仏の具体的な姿に想いを凝らして、その仏を礼拝することで、不退転の菩薩になることが示されています。
ここで私が注目したいと思っているのは、龍樹が「仏名」を聞き、「仏名」を通じることで救済が約束されている点です。


『中論』の論理からすれば、名号は真理を表現し得るものではなく、むしろ本質への倒錯を生むものでしかありません。その意味で言語は本質から私たちを遠ざけるようなものです。言語は所詮、分節知に過ぎず、本質を分類して概念化し、説明できるよう、認識できるようにしますが、認識されるようになった概念は本来本質とは常にズレてしまいます(哲学者のジャック・デリダはこの事態を「差延」<ディフェランス>と表現しました)。


つまり言語の認識を全て剥ぎ取られて、残った人間が、再び仏に近づく方法も、また「仏名」という言葉に依らざるを得ないということなのかと思います。


「方便」の原語はウパーヤであり、ウパーヤには「近づく」という語義があります。法華経方便品は「ウパーヤ・カウシャルヤ」すなわち「巧妙な手段」と訳されます。
つまり仏の名とされるもの、真実の名とされるものも、所詮それは真実を直裁に言い表そうとした「秘妙方便」に過ぎず、それは真実ではあり得ないということです。
しかし龍樹はその名を聞くことで、再び救済され得るとしています。


『中論』で見られたような、惰性的な記号世界による救いを拒否し、自らが思い描く理想の諸仏の世界への誘引を「仏名」によって果たそうとする姿が、この『十住毘婆沙論』には見られます。そしてそれは恵心僧都源信の『往生要集』等、その後の日本の念仏思想に引き継がれた重要な概念ではなかったかと私などは思います。



参考文献:
細川巌『龍樹の仏教  十住毘婆沙論』ちくま学芸文庫、2011年。