気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

何が間違っていたのか。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて創価学会は現在公称827万世帯の会員がいるとしています。



池田大作氏が会長に就任したのが昭和35年、そこから創価学会は破竹の勢いで会員を増やしてきました。
昭和47年に355億円の供養をもって大石寺正本堂を建立。大石寺の前庭には久遠の灯が点けられ、海外のメンバーを呼んで文化祭さえやりました。
正本堂建立以降、創価学会は「広布第2章」となり、一つの区切りがつけられます。



そんな創価学会が現在では海外192か国・地域に広がり、1200万人を擁するメンバーが存在するとしています。


さらには創価学会が支援する公明党は、すでに政権与党として20年近く活動。ながく自民党との連立政権に参加しています。



さてそれでは、日本は豊かになったのかということです。
私たち、会員は豊かになったのか、幸せになったのかということです。
日本中に、世界中に教えが広がっているなら、私たち会員の暮らしは豊かになったのかということです。


現在、創価学会の会員さんで、長く活動をしてきて、最近の創価学会に疑問を感じている方の多くが、ここに疑問を発しているのかと思います。
「何かがおかしかったのではないか」と考える方がとても多いように思います。


では何がおかしかったのか。
その点が会員にとってまちまちなんですね。


今まで信じて活動してきたものだから、根本は正しいはずだと考える人がいます。
ではその「根本」とは何なのでしょう?
これも答えが個人でまちまちです。弘安2年の戒壇本尊だという人もいれば、久遠元初の宇宙の法だという人もいます。牧口・戸田・池田が根本だという人もいれば、今までの信仰体験や実感を大事にする人もいます。


私はその全てを否定しました。今まで信じてやってきたから何かを信じたくなる気持ちもわからなくはありませんが、私は自分の今までの人生が無意味なものであったのかもしれないと覚悟をしました。
それには痛みが伴いました。自身のやってきたことの否定だからです。
しかしそれをすることが大切なのだと感じています。


犀角独歩氏は戒壇本尊の首題をコンピュータ・マッチングで解析した際に、日禅授与本尊と相貌が一致してしまい「嘘であってほしい」と強く願ったと、ブログで当時の心情を吐露されています。
そう思うのも当然です。彼はそもそも戒壇本尊の正統性を証明しようと首題の文字の解析に乗り出したのです。それが首題の文字が相貌で一致してしまい、単なる複製であることがわかってしまったんですね。
犀角独歩氏はそこで今までの自分の人生を全て否定し、思索を続けておられます。


現在の創価学会会員の感じる疑問は、生活実感から起こるものかと思いますが、それゆえに今までの人生を否定できないでいるのだと私は考えています。


こんなに創価学会の教えが広まったとするなら、なぜ景気回復を実感できないのか。鬱になる人がいるのか。パニック障害を発症するのか。
今までやってきたことが正しかったはずだと思う方が大石寺に行ったりします。
それができない人は、池田大作氏を絶対視して原田稔会長ら執行部を批判の槍玉にあげます。現在の創価学会が間違っているのは、原田会長ら執行部のせいだとする論理です。


誰が何を「根本」にして、何を絶対視しようとも、それは所詮個人の自由です。
しかし全てを総括しようと思うなら、そもそも自分のよって立つ思想的基盤を考え直す、一度自身の思想を客観視し、かっこに括ることが大切なのだろうと思います。
私はそれをやってみました。得た結論は「あらゆる法の常住への執着から逃れる」ということです。
痛みも伴いましたが、今は思索することが自由になりました。同時に私のブログを読んで自由に思索できるようになった方もおられるようです。ありがとうございます。


何かにすがって、何かを根本にしても構いません。しかしそれが否定された時に次には何にすがって生きるのかということです。
創価学会員さん、法華講さんの多くが、そういった思索に不慣れで、浅慮な盲信になりがちです。だからそれらを否定される文に出会うと感情的に反発してしまうのです。
自分の思想的な前提を否定されて反発するのは、それらの「根本」にその人が寄りかかって生きているからなのであって、真に自立した思索をされていないためかと私は考えています。



私と私の両親の「活動家としての人生」は、所詮あまり意味がなかったものかと思います。
けれどそれなりに楽しかったものでもあります。
私の唯一の後悔はこのブログで書かれていることの全てを母や父に伝えることができなかったということです。母も父も亡くなりましたが、私は別に創価学会に恨みを抱いているわけではありません。選んだ私たちが悪かったのです。


私はブログを書きながら、自分の頭で考えることをしてみたいです。
どこかの教団や本山の主張する教義に則って考えたくなんてありません。
教団の論理なんて必要ありませんし、論理は自分で編み出せばそれでよいのだと思います。それが間違っているなら正せばよいのですから。