いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は大石寺系教団がよく用いる「大聖人」という呼称についてです。
ただそれは興門流の一派によって用いられた呼称である可能性が高く、私個人としては歴史上の一人物として「日蓮」と呼んでいます。
大石寺系教団で問題なのは、あたかも「大聖人と呼ばないことが罪悪」であるかのように主張し、他者に自分たちの呼称を正当化して強要しようとする、その態度の方です。
実際、池田大作氏も2000年代のスピーチではもっぱら「蓮祖」とか「蓮祖聖人」と呼称していました。
その人の考えもあるのですから、無理やり自分たちの呼称を正当化して、他者にそう呼ばないことを罪悪であるかのように主張することは、私の目にはいささか狂信的な態度に映ります。
以下に引用してみましょう。
「迦葉・阿難等・竜樹・天親等・天台・伝教等の諸大聖人知つて而も未だ弘宣せざるところの肝要の秘法は……」
(『曽谷入道殿許御書』創価学会版御書、1037ページ)
「当に知るべし此の国に大聖人有りと」
(『法蓮抄』同1053ページ)
「又真実の経の御ことはりを代末になりて仏法あながちに・みだれば大聖人世に出ずべしと見へて候」
(『兵衛志殿御書』同1095ページ)
まず最初の引用である『曽谷入道殿許御書』では「迦葉・阿難等・竜樹・天親等・天台・伝教等の諸大聖人」と述べていますから、日蓮における「大聖人」の用例は日蓮だけとは言えず、迦葉や阿難、龍樹、智顗、最澄などにも使われています。
これらの表現を引っ張って来て、日蓮を「大聖人」という特別な存在として呼称し、先鋭化したのはやはり富士の興門流であったかと思います。例えば『富士一跡門徒存知事』には確かに「日蓮大聖人」という表現が見られます(同1607ページ)。
伝統的に日蓮を大聖人と呼称するのは、日興門流、とりわけ大石寺系教団に共通する特徴ですが、それは自分たちを特別化し、先鋭化していった過程で使われた呼称である可能性があり、また日蓮本人も自分で自分を「大聖人と呼ぶべき」だとした表現もありませんから、私は客観的な立場をとる意味で「日蓮」と呼称しています。
私がここで否定したいのは、他者に自分たちの呼称を強要し、それ以外の呼び方を「不相伝の輩」とか「謗法」と称して侮蔑しようとする態度のことです。それらはいかに自分たちの正統性を強調しても、客観的な態度をとることができないため、所詮ドグマに堕すると考えています。