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創価学会の非活メンバーによる語り

学問所としての重須談所。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は「重須談所」のことです。


日興門流八本山の一つに数えられる北山本門寺(重須談所)は、1293年に寄進を受け、かつて日興が開いた寺です。
大石寺については、日興は日目にこれを譲りましたが、その後、日興は重須に本堂や御影堂、垂迹堂を建立し、本弟子6人を定めます。日興はこれ以降、亡くなるまでの晩年の期間をこの重須談所で過ごすことになります。
1302年には五老僧の一人である日頂が、重須の日興のところを訪ね、日興に帰依しています。


この場所が当時から「重須談所」と呼ばれており、御影堂を中心に日興の大坊や弟子たちの住居が建っていたことはいくつかの文献から確認することができます。


『頼基陳状』日興写本に依りますと、正和5年(1316年)に「駿河国富士上方重須談所」で書写されたと記録されています。
また日興による『開目抄要文』には「正和六年二月二十六日於御影堂」と書かれていますので、すでに「御影堂」があったことがわかります。三位日順の『表白』末文にも「文保二年十一月二十四日、重須の談所に於いて一座の論談を致す」と書かれています。


ところで1317年(文保元年)に三位日順が2代目の重須談所の学頭になります(初代は寂仙房日澄)。日順の『用心抄』には以下のように書かれています。


「抑久遠の如来は・首題を上行菩薩に付嘱し、日蓮聖人の法門は・日興上人に紹継し・紹継の法躰は日澄和尚類聚す、類聚興顕して師に先立つて没す、上人常に誓願して曰はく、先聖に逢値する五老すら猶誤謬有り・早世以来の弟子定めて非義を懐かん、自今已後・聖人著述の書釈に任せ・久く法光を曜し・澄師所撰の要文を守りて宜しく宗旨を興すべし、法華に皆な進む時来り・本門寺の立つの期至らば・澄公の跡を以つて大学頭に補せよと云云」
(日順『用心抄』富士宗学要集2-16ページ)


つまりこれによれば、本門寺建立の時が来たならば、重須談所の学頭をもって「大学頭」に任じよと日興から言われていたことになります。
つまり日興は、本門寺建立の時の学問所として重須談所の役割を考えていたということになろうかと思います。