気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

正本堂の意義づけ。




いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今日は正本堂についてです。



大石寺には戒壇本尊と呼ばれるものが現在は奉安堂にありますけど、その前は正本堂にありました。


昭和47年に創価学会から大石寺に建立寄進された正本堂は、将来的に「本門の戒壇」となるとされ、会員さんが「最後のご供養」とばかりにお金を出して作られました。最後のご供養と言ったはずなのに、未だに供養や財務を出させているところがまあ大石寺創価学会らしいなぁと思いますが。



ところで、本当のところを言ってしまうと、創価学会側は当初「正本堂」は「本門の戒壇」と別に考えていたのです。



正本堂の発議がされたのは昭和39年(1964年)5月3日、第27回本部総会の席上です。この時、大石寺細井日達氏が講演を行い、池田大作会長が「正本堂を建立し、猊下にご寄進申し上げたい」旨を発議します。
この席上、池田会長は「30億円の予算で作ろうではないか」と呼びかけて、次のように発言しています。


正本堂の建立は事実上本山に於ける広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがってあとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります。したがって全体的な御供養といたしましては今度の正本堂の御供養だけで、いっさい将来はいたしません。」



少し補足しますと、この頃の創価学会はまだ「本門戒壇国立戒壇」説を採っていました。ですから本門戒壇は「国立」、すなわち国の予算で行うものであり、信徒の供養によるものではないと考えていたんですね。
ですから当時、昭和39年までの創価学会は「正本堂」と「本門の戒壇」とを別のものとして理解していました。



ところで、これが変化するのは大石寺管長であった細井日達の発言以降のことです。
具体的に言うと昭和40年(1965年)2月16日、大講堂における第1回正本堂建設委員会の席上です。ここで細井日達氏は次のように発言します。


「いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておきたいのであります。
大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のためへの偉大なるご遺訓であります。
これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。
小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂でなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。
それゆえ、百六箇抄には『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。
また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡嫡相承の曼茶羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり』と、こう明らかにされておるのでございます。
したがって、その曼茶羅を現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うわけであります。戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。
また当時は大聖人のおいでになるところが本堂であり、ご入滅後は御本尊のおわしますところが本堂となってきたものであります。そして本堂で御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは、信者だけですから、だれでも直接に御本尊を拝めたのです。したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。
ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます。」



以上の日達氏の発言を読めばわかるように、正本堂が未来において「本門の戒壇」になるという教義は創価学会ではなく、大石寺から出てきたことなんですね。
この細井日達氏の発言により、熱心な創価学会員の多くが「一世一代の御供養」とばかりにたくさんのお金を出すこととなりました。
ちなみに正本堂建立供養では目標の30億円をはるかに超え、355億3600万4309円のお金が集まることになります。なおこの当時の妙信講(後の顕正会)もこの時の正本堂建立供養には参加していまして、講として800万円の供養をし、細井日達より記念の数珠も賜っています。