気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

昭和52年路線の転轍。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回の記事は昭和52年路線についてです。


創価学会は昭和47年の正本堂建立以降から、次第に在家主義的な色彩を帯びるようになり、会長を「久遠の師」と呼んだり、「本門弘通の大導師」等と呼んだりしていました。
そして昭和52年1月15日、第9回教学部大会における池田大作会長(当時)の「仏教史観を語る」と題する講演が行われます。この講演の内容こそが当時の大石寺宗門が問題視した部分で、これらの創価学会の在家主義的な教義についての考え方は「昭和52年路線」と呼ばれます。


ところで、これら創価学会の昭和52年路線、在家主義的教義に対し、大石寺側は昭和53年6月19日に質問書を送ります。創価学会側は1週間程度で回答を送付。この中で創価学会は教義についての逸脱を率直に認めます。この創価学会の回答は6月29日に大石寺教師指導会(大講堂)の席上、参加者に配布・周知されました。


ではこの中で創価学会が何を認めたのか、一部を抜粋して書いてみたいと思います。



「一、昨年の一月十五日の第九回教学部大会における『仏教史観を語る』と題する講演については、仏教史を通して広宣流布をめざす学会の今日的意義を述べたものである。
今日、これだけの在家集団ができあがったことは仏法史上、画期的なことである。しかし、このことを強調したことが、出家仏教に対して在家仏教を立てるというような印象を与え、結果的に正宗の伝統及び御僧侶、寺院の軽視につながる論拠を与えたことは、まことに遺憾である。そうした考えはもとよりない。
一、この講演の文中『葬式だけを行い我が身の研鑽もしない……』とあるのは、日蓮正宗僧侶を目して述べたものではなく、日蓮正宗以外の一般仏教界の多くの姿を語ったものである。したがって『既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所ではなく、道場でもない』というのも、正宗の寺院を言ったものではないことをご了承願いたい。しかしそういう印象を与えたとすれば、まことに遺憾である。
一、維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく仏に捧げる意味である。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとは言えない。経文に応供とあるのは仏のことで、供養を受ける資格があるのは仏以外はない。したがって在家が供養を受ける資格があるという記述は改める。
一、寺院の存在についてであるが、日蓮大聖人は、お亡くなりになる前年の弘安四年には、身延に十間四面の堂宇を建てられ、これを久遠寺命名された。そして『池上相承書』においては『身延山久遠寺別当たるべきなり』と日興上人へ遺付されている。さらに日興上人は、身延離山の後、正応三年、南条時光の寄進を得て大石寺の基を築かれたことは、周知の事実である。
正宗寺院においては、正法をもって授戒、葬式、法事、結婚式等の衆生済度のための大切な行事を行なっている。寺院もまた、広宣流布のための活動の重要な拠点であることを認識したい。学会のみが広宣流布の場として、寺院がそうでないかのような表現は、明らかに言い過ぎである。
一、『僧宝』とは正宗においては第二祖日興上人のことであり、また会長も発言しているごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられる。したがってこの正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては、絶対に混同するようなことがあってはならない。
また広義においても学会を『僧宝』という言い方はしてはならない。
一、かって入信動機を語るに際し"正宗から学会へ入信"と記した表現があった。これは、それ以前も正宗であったが、学会に入って初めて正宗の真実の信仰に目覚めたとの意味であり、信仰のあり方の問題であったが、正宗と学会が別であるかのような印象を与える表現となってしまったことは遺憾である。」



すでに創価学会大石寺から破門され、別個の宗教法人となっていますから、創価学会が何を語っても別に自由なのですが、少なくともこの時点で創価学会側は「在家が供養を受けられるという考えは改める」としたわけですから、それが無反省に反故にされ、実質的に目的が特にあるわけではない財務が会員に続けられている実情があるとするなら、なんらかの自省が求められると思います。
またここで創価学会は自分たちを「僧宝と呼ぶことはしない」としていますが、現在の創価学会は自教団そのものを「創価学会仏」として仏格扱いまで引き上げました。これについてもなんらかの自省が求められると私などは思います。


まあ元鞘の大石寺の教義そのものが、その時その時で都合のよいことを述べてきたようにしか思えない私などは、所詮創価学会大石寺の鬼子のような存在なのだろうと考えています。