気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

佐渡以前だから否定される?





いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで日蓮『唱法華題目抄』には以下のような一節があります。


「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」
(『唱法華題目抄』創価学会版御書12ページ)


ところで、活動家時代の私はここの「その志がある者は必ず一念三千の観も学んでこれを観ずるべき」という文意を読んで、智顗の止観なども大いに学びたいと思ったものです。
ところが、創価学会の御書講義録刊行会編の同抄の解説によりますと、「本抄は文応元年(1260年)の述作であり、佐渡以前の御抄であるので、日蓮の御正意ではない」として退ける説明がされていました。


私はこの御書講義録刊行会の解説に得心しませんでした。「佐渡以前だから日蓮の正意ではない」とするなら『立正安国論』だって文応元年、同年の述作です。


私はここで何を根拠にして「『唱法華題目抄』は佐渡以前だから否定されるべき」としているのか、調べてみました。
そうしたらわかりました。
その根拠は大石寺26世の日寛だったんです。


具体的に言いますと、日寛の『観心本尊抄文段』(観心本尊抄愚記)です。


「問ふ若し爾らば唱法華題目抄に云く愚者多き世なれば一念三千の観を先とせず其の志有らん人は必ず習学して之を観ず可し等云云、此の文如何、答ふ是れ宗祖の御本意に非ず(中略)、唱法華題目抄は一往天台附順の釈也佐渡已前文応元年の御抄也」
(日寛『観心本尊抄文段』富士宗学要集4-223ページ)


創価学会大石寺日蓮解釈は相当程度に日寛釈が入り込んでいまして、一度思考がスポイルされるとなかなかその思考法から抜け出せなくなります。日寛流に読む癖ができてしまいまして、なぜそう読まなければならないのかと云うことに思いを致せなくなってしまうんですね。


そんなわけで、今の私は日寛の解釈に依らず、書いてある通りに『唱法華題目抄』を読みたいと考えています。