気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

文献に即して。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて私はこのブログで日蓮の教義についていろいろ再考する記事を書いています。その基本的なスタンスは「書かれているものを根本にする」「史実を根本にする」ものであって、思惑や主観を極力排して客観的に事実を導き出したいというものです。


なぜそう考えるのかという一つの遠因なのですが、そもそも日蓮本人もまた「文献的な裏付けがなければ法門を説いてはならない」という考え方を採っていたと私が思うからなんですね。
もちろん日蓮には日蓮の生きた時代において、思考の歴史的制約もあったかと思いますが、日蓮はあくまで文献、経典に即して考えようとしていたとは思います(それがきちんとできていたのかどうかという問題はさて措くとしてもです)。



いくつか日蓮の遺文から引用してみましょう。



「仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か」
(『唱法華題目抄』日興写本現存、創価学会版御書9ページ)


「法門をもて邪正をただすべし利根と通力にはよるべからず」
(『唱法華題目抄』同16ページ)


「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり」
(『行敏訴状御会通』身延曽存、同181ページ)


「汝が不審逆(さかしま)なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を尋ぬべからず」
(『撰時抄』真蹟:玉沢妙法華寺、同259ページ)


「仏の未来を定めて云く『法に依つて人に依らざれ』竜樹菩薩の云く『修多羅に依れるは白論なり修多羅に依らざるは黒論なり』天台の云く『複修多羅と合せば録して之を用ゆ文無く義無きは信受すべからず』伝教大師云く『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』等云云」
(『撰時抄』同281〜282ページ)


「若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり」
(『祈禱抄』身延曽存、同1355ページ)



日蓮ができていたのかどうかは別としても、少なくとも日蓮本人が「書かれたもの、経典」を基準とし、それを根拠に置かない口伝や現証論、通力等を慎重に退ける姿勢を持っていたことは上記の遺文からも言えるように私は思います。