気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

聞法下種と発心下種。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は聞法下種(もんぽうげしゅ)と発心下種(ほっしんげしゅ)についてです。



創価学会やら大石寺系教団の方々は、布教活動をされる際によくこの「聞法下種」と「発心下種」という言葉を使います。
つまり「布教をしたら相手が発心した場合」が「発心下種」で、「布教をしても相手が発心しない場合」が「聞法下種」になります。
ですから、大石寺系教団の説明では布教活動をして相手が入信してもしなくても相手に「種」を蒔いたことになり、その功徳は同じであるという教義になります。



ところで、この教義はどこが由来かというと、大石寺26世日寛由来の教義です。
本当に創価学会の教義は細かいところまで大石寺日寛の教義の借り物なんですね。


この「聞法下種」と「発心下種」は日寛の『観心本尊抄文段』で説かれるものです。



「在世の下種とは唯是れ発心下種にして是れ聞法下種に非るなり。当に知るべし、下種に即ち二義あり、謂く聞法と発心となり。妙楽云く聞法を種と為し発心を芽と為すと是れなり。」
(日寛『観心本尊抄文段』富士宗学要集4-280ページ)




そんなわけで「聞法下種」と「発心下種」もまた日蓮の説ではなく、大石寺日寛の説に過ぎません。大石寺教学は日蓮を本仏に祀り上げながら、肝心の教義について日蓮よりも日寛解釈を優先させる傾向が感じられます。
そして日寛のタームは創価学会の教義や、創価学会員の思考の中に深く入り込んでいて、信徒の方はなかなかそのことを振り返ることができなくなっているんですね。



私としては日蓮の教えを行じる団体ならば何も日寛説など頼りとせず、日蓮の遺文の方を丹念に読むことが大切なのではないかと思います。それこそが本来の日蓮直結の信仰でしょう。