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さて今回は聞法下種(もんぽうげしゅ)と発心下種(ほっしんげしゅ)についてです。
つまり「布教をしたら相手が発心した場合」が「発心下種」で、「布教をしても相手が発心しない場合」が「聞法下種」になります。
ですから、大石寺系教団の説明では布教活動をして相手が入信してもしなくても相手に「種」を蒔いたことになり、その功徳は同じであるという教義になります。
ところで、この教義はどこが由来かというと、大石寺26世日寛由来の教義です。
この「聞法下種」と「発心下種」は日寛の『観心本尊抄文段』で説かれるものです。
「在世の下種とは唯是れ発心下種にして是れ聞法下種に非るなり。当に知るべし、下種に即ち二義あり、謂く聞法と発心となり。妙楽云く聞法を種と為し発心を芽と為すと是れなり。」