気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

弟子による師の補完。

 

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回はブログ読者の方から頂いたメールをご紹介させて頂きます。
 
 
 

「いつも楽しく拝見させていただいております。活動家だった頃、私は

『イケダセンセイの弟子として何をなすべきか』

ということを考えていました。

そもそも師弟関係自体が組織から押し付けられたものだったのですが、そういう事だと受け入れていました。

そして、弟子として何をなすべきかを真剣に考えたものです。

ふと宮田氏の所感を読んでいたところ、示唆深い部分がありました。

『真の弟子とはこういうものだろう』

とそれなりに納得できたところです。

 

結論から言えば、弟子とは師匠の理論的限界を見極める必要があるということです。

(とはいえ、師弟論いっぱんに通用するものではなく、ソクラテスプラトンアリストテレスの関係についての限定ですが。)

 

宮田氏はこの点を宗教と哲学の相違点として考えています。

いわゆる理論の評価とそれを唱えた人物の人格的評価は、哲学の場合は異なる評価を与えられるのだが、宗教の場合はそれらが不可分の関係にあり、それが議論をややこしくするということです。

例えば、ラボアジェが発見した質量保存の法則は現在では一般法則ではありません。

核反応によって別の物質に代わることが起こり得るからです。

だからと言って、ラボアジェはおろかな学者だったという人はいませんね。

哲学や科学はこのように人物の評価と提唱した理論の評価は別に行われます。

しかし、

日蓮末法観は間違っていた。法華経釈尊が説いていないから五重の相対は無効な議論である』

といえば、

『それは日蓮への冒涜だ。謗法だ。罰が当たる』

となりますよね。

人物の評価と理論の評価が不可分の関係にあるのが宗教の特徴の一つだとしています。

 

プラトンは師ソクラテスの限界を見極め、イデア論を構想し、アリストテレスはその不十分性を分析していますが、それぞれを師と仰いていたようです。

その考察と師への畏敬と評価は別物だったようです。

 

ということは、ブログで示している

『日寛教学と儒教思想が池田思想の本質であり、それが限界なのではないか』

という議論は本来的には池田大作の弟子と言われる人たちの仕事であり、それを謗法、冒涜呼ばわりすることこそ誤りであると私は考えます。

そんなことを言っていないで、本来の弟子の仕事をこともあろうに批判者(先方はそう思っているでしょう)に取られてしまったことを恥じるべきでしょうね。

 

『イケダセンセイは素晴らしい』

『その思想は正しい。素晴らしいものだ』

というだけであれば、オウムか、質の悪いAIの仕事でしょうね。

 

宮田氏の引用をしておきます。

 

『さて哲学においては真理の探求という大義名分のもとで、いかなる哲学者の学説に対しても、その学説が真理である根拠とは何かと問うことが許されている。

プラトンは師ソクラテスの説の不十分性を自覚していたから、イデア論を構想したし、アリストテレスはまた師プラトンイデア論の不十分性を、様々な分析において示している。理論はそれを主張した哲学者の人格的評価とは別の運命をたどることになる。

ところが哲学と同じような人間の営みの一種である宗教の場合は事情が多少異なっているように理解されているようだ。

つまり理論は人格と必ずしも分離していないのである。

それは宗教が人格的救済を存在理由の一つにしており、特に創唱宗教の場合は、創唱者の思想は創唱者自身の人格において実現され、その人格がモデルになるからであろう。

したがって創唱宗教の場合は創唱者の思想は絶対視され、その思想にいかなる根拠があるのかと問うことは、その創唱者に由来する教団においては、創唱者への人格的冒涜であると見なされやすい。』」

http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper20-3.html

 

 

 

 非常に納得させられるメールでした。ありがとうございました。私はこのブログで池田氏の批判をして、彼の思想的な限界をきちんと見定めたいと考えていますが、その補完作業は本来池田氏の弟子を自称する方たちの仕事であるはずです。

 

牧口初代会長は価値論を根本に独自の教学体系を確立させましたが、次代の戸田会長はそれを発展的に解消させ、教団の名称まで変え、価値論を実質的に捨て、戸田独特の生命論を展開するに至りました。

池田氏もまたそうですが、弟子による師匠の解釈、また補完ということはあって当然のことであり、それがわからずに池田氏を批判することを安易に否定しているだけでは、返って池田門下というものが師を原理的に動かせないものと考え、教団の硬直化を招くだけかと私は思います。