「いつも楽しく拝見させていただいております。活動家だった頃、私は
『イケダセンセイの弟子として何をなすべきか』
ということを考えていました。
そもそも師弟関係自体が組織から押し付けられたものだったのです
そして、弟子として何をなすべきかを真剣に考えたものです。
ふと宮田氏の所感を読んでいたところ、
『真の弟子とはこういうものだろう』
とそれなりに納得できたところです。
結論から言えば、
(とはいえ、師弟論いっぱんに通用するものではなく、
宮田氏はこの点を宗教と哲学の相違点として考えています。
いわゆる理論の評価とそれを唱えた人物の人格的評価は、
例えば、
核反応によって別の物質に代わることが起こり得るからです。
だからと言って、
哲学や科学はこのように人物の評価と提唱した理論の評価は別に行
しかし、
『日蓮の末法観は間違っていた。
といえば、
『それは日蓮への冒涜だ。謗法だ。罰が当たる』
となりますよね。
人物の評価と理論の評価が不可分の関係にあるのが宗教の特徴の一
プラトンは師ソクラテスの限界を見極め、イデア論を構想し、
その考察と師への畏敬と評価は別物だったようです。
ということは、ブログで示している
『日寛教学と儒教思想が池田思想の本質であり、
という議論は本来的には池田大作の弟子と言われる人たちの仕事で
そんなことを言っていないで、
『イケダセンセイは素晴らしい』
『その思想は正しい。素晴らしいものだ』
というだけであれば、オウムか、質の悪いAIの仕事でしょうね。
宮田氏の引用をしておきます。
『さて哲学においては真理の探求という大義名分のもとで、
プラトンは師ソクラテスの説の不十分性を自覚していたから、
ところが哲学と同じような人間の営みの一種である宗教の場合は事
つまり理論は人格と必ずしも分離していないのである。
それは宗教が人格的救済を存在理由の一つにしており、
したがって創唱宗教の場合は創唱者の思想は絶対視され、
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非常に納得させられるメールでした。ありがとうございました。私はこのブログで池田氏の批判をして、彼の思想的な限界をきちんと見定めたいと考えていますが、その補完作業は本来池田氏の弟子を自称する方たちの仕事であるはずです。
牧口初代会長は価値論を根本に独自の教学体系を確立させましたが、次代の戸田会長はそれを発展的に解消させ、教団の名称まで変え、価値論を実質的に捨て、戸田独特の生命論を展開するに至りました。
池田氏もまたそうですが、弟子による師匠の解釈、また補完ということはあって当然のことであり、それがわからずに池田氏を批判することを安易に否定しているだけでは、返って池田門下というものが師を原理的に動かせないものと考え、教団の硬直化を招くだけかと私は思います。