気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

釈迦を本尊とすること。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて『観心本尊抄』に添えて書かれた『観心本尊抄送状』には次のような一節があります。



「師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん」
創価学会版御書、255ページ)


仮に大石寺創価学会が言うように

「龍ノ口・佐渡以降、日蓮は本仏としての本地を現し」
「本来、日蓮が師で釈迦が弟子であるという末法の本仏の自覚を持つに至った」

とするなら、なぜここで日蓮が霊山浄土で釈迦仏の顔を拝したいと言っているのかがよくわかりません。


『報恩抄』においては

「答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」
(同328ページ)


とありますが、どうしてここの「本門の教主釈尊」を大石寺系教団の人たちが「末法の本仏・日蓮大聖人のことだ」と強弁されるのかが私にはよくわかりません。


『神国王御書』には

「其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし」
(同1525ページ)


と書いてあるように、日蓮が生涯伊豆流罪以降、釈迦仏像を持ち、それに題目を唱えていたことは種々の文献からも明らかです。


日蓮を真蹟から読み解くと、日蓮はあくまで釈迦の使いとしての立場で一貫していることがよくわかります。なぜそれを捻じ曲げ、わざわざ真蹟にない虚像を日蓮に与えようとするのかが私にはよくわかりません。