いつもみなさん、ありがとうございます。
「師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん」
「龍ノ口・
佐渡以降、
日蓮は本仏としての本地を現し」
「本来、
日蓮が師で釈迦が弟子であるという
末法の本仏の自覚を持つに至った」
とするなら、なぜここで
日蓮が霊山浄土で釈迦仏の顔を拝したいと言っているのかがよくわかりません。
『報恩抄』においては
「答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主
釈尊を本尊とすべし」
(同328ページ)
とありますが、どうしてここの「本門の教主
釈尊」を
大石寺系教団の人たちが「
末法の本仏・
日蓮大聖人のことだ」と強弁されるのかが私にはよくわかりません。
『神国王御書』には
「其の外小庵には
釈尊を本尊とし
一切経を安置したりし」
(同1525ページ)
と書いてあるように、
日蓮が生涯伊豆
流罪以降、釈迦仏像を持ち、それに題目を唱えていたことは種々の文献からも明らかです。
日蓮を真蹟から読み解くと、
日蓮はあくまで釈迦の使いとしての立場で一貫していることがよくわかります。なぜそれを捻じ曲げ、わざわざ真蹟にない虚像を
日蓮に与えようとするのかが私にはよくわかりません。