気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

ドグマを越えて。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私のこのブログは「気楽に」と銘打っています。



私は自分が求めていることをただ求めていきたいと考えているだけです。
私は自分の限界も知っていますし、専門的な研究が充分にできているなんてこれっぽっちも思いません。
だから気楽に語りたかったのです。
自分の信じるものは、あくまで文献に即して客観性に基づいたものにしたいと考えましたし、そこから飛躍して勝手な妄想を他人に宗教的な思い込みから強要しないようにしたいと考えたからです。



私が最も忌み嫌うのは、自分がさして知りもせず、求めようともしないのに、自分の宗教的な確信がさも真実であるかのように振る舞い、真理を偽装する態度です。


私は文献的に裏付けられた異論があれば、積極的に受け入れ、自身の思想を更新することに躊躇しません。
事実、ブログ「創価学会の信仰に功徳はあるか」の米山さんなど多くの方から文献的な考証やご批判を頂き、少しずつ意見も変えて来ています。


Twitterでも書きましたが、私は、自身の思想的前提になんら疑いを抱かず、信仰的なドグマを他者に無自覚に強要するような議論を決して許しません。
それを許してしまえば、現今の創価学会大石寺のドグマを許すことになるからです。あらゆる真理は暫定的なものであり、不断に更新され得るものとしてでしか私は認めないからです。


例えば創価学会大石寺という教団そのものが「悪」であると仮定して、ではそこに所属する信徒さん一人一人が悪人だったのかと言うとそうとは言えないでしょう。
宗教的なドグマというのは悪人が作るのではなく、善良で無思慮な凡人によって形成されていくものです。それが膨れ上がって巨悪になったものこそが創価学会であり、大石寺でしょう。
人はすぐ創価学会が悪いとか大石寺が悪いとか原田会長が悪いとか、レッテルを貼って悪の原因を一つに措定して安心しようとしますが、それは本質ではなく、むしろ宗教のドグマというエレメントはマックス・ヴェーバーが言うような意味で、常に一人一人の個人の中に内在している危険性なのかと思います。


マックス・ヴェーバーは「官僚制」論文の中で国家や社会が機能的側面から官僚制を選択し、それが次第に形骸化して個人に対して対立するような側面を持つことを認めています。官僚は本来悪人ではない。けれどもそれが権威化して個々を疎外するのです。
この社会の疎外という現象はマルクスが『経済学・哲学草稿』で指摘したことです。信号機は個人の交通安全を守るという"本質"を持ちます。しかし信号機の存在により、車が一台も走っていなくても交通ルールという形で個人を歩かせないという"強制力"にもなり得るのです。つまり本質から自己が疎外されるという事態をマルクスは見ていたということです。


考えない人間、無思慮な人間、己を疑うことを知らない人間が増えれば、集団の社会性はドグマに変貌し、個々の人間を疎外することになるでしょう。だからこそ私はあらゆる規制の権威や教義から離れて自由に思索したいと考えています。そのための方法こそが史実と史料であり、そこに立脚点を置く時に初めて自身の思想を客観視できるのかと考えています。