気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

昭和52年路線の背景を考える。





いつもみなさん、ありがとうございます。
今回は創価学会の「昭和52年路線」に関する、西山茂氏の論考の一部を取り上げ、当時の創価学会と妙信講(現在の顕正会)、そして大石寺との間で何があったのかを考える契機としたいと思います。



最初に西山茂氏の論を引用してみます。



創価学会と宗門が『言論出版妨害問題』を契機として国立戒壇論を放棄したことに対して、根本主義の立場をとる宗内の一部僧俗、とりわけ妙信講(現在は顕正会)から、鋭い批判の声があがった。しかし、『政教一致』を非難する厳しい世論を前にして再び国立戒壇論の立場に戻れる訳もなく、ここに両者は、妙心講問題という難題を抱えることになった。そして、これが、やがて創価学会をして、後述するような『昭和五十二年路線』と言われる在家主義色の濃厚な教団自立化路線へと向かわしめる契機となった。妙信講問題とは、妙信講を中心とした宗内の根本主義者が、国立戒壇論の正当性をなお主張して、それを放棄した創価学会および宗門と激しく対立した問題を指す。しかし、創価学会をして、『昭和五十二年路線』へと向かわしめたものは、戒壇論を巡る妙信講との対立そのものではなく、むしろ、教学上の正邪の裁定権を握っていた法主の、同問題への対応ぶりであった。すなわち、第六十六世法主細井日達は、それまでは創価学会とともに国立戒壇論を否定し、また、『正本堂』の建立が実質的な『事の戒壇』の建立であるとする『正本堂供養趣意書』等における創価学会の主張を黙認してきたにも関わらず、いざ妙信講問題が起こると、今度は立場を変えて、創価学会と妙信講との間の教学論争を第三者的に裁こうとした。しかも、その裁定は『定見なく、ある時は妙信講に、ある時は創価学会にと軍配を上げ(る)』ようなものであった。
こうして、創価学会は、国立戒壇論の是非と『正本堂』の教学上の意義を巡って、昭和四十五年から四十七年の間に、法主の面前での対論も含め、十数回に亙って妙信講と対論させられ、その結果、昭和四十七年の十月三日には『正本堂』の完成が直ちに『事の戒壇』の建立を意味しない旨の理事長のコメントを同会の機関紙『聖教新聞』紙上に掲載せざるを得なくなるなど、同会の存在と行為の正当化が著しく困難になる事態に直面した。上記のような法主のボナパルティックな対応は、宗門経済に対する絶大な貢献によって実質的になされていた創価学会の宗門支配に危機感を抱きはじめた法主が、戒壇論の変更に対する妙信講の異議申し立てを好機に、また、自らの教学上の裁定権を武器に、宗門の権威を同会に認識させ、政治的に牽制しようとする意図によるものであったと思われる。しかし、こうした法主の態度は、妙信講と創価学会の双方に、法主に対する抜き難い不信感を与え、やがて妙信講の解散処分(昭和四十九年八月)と創価学会の『昭和五十二年路線』とを招来することになる。」
(西山茂「正当化の危機と教学革新」『法華仏教研究』第3号所収、法華仏教研究会、2010年4月)




国立戒壇論の放棄については、確かに言論問題以降、創価学会大石寺もそれを放棄するという立場であったはずなのですが、なぜか昭和45年〜昭和47年にかけて創価学会と妙信講は何度となく対論をしなければならない事態に至ったことは事実です。
昭和45年9月11日に一度合意に至り「御報告」と題した文書を創価学会幹部と妙信講側の連名(この時のメンバーは創価学会からは和泉覚森田一哉秋谷栄之助、妙信講からは浅井甚兵衛、浅井昭衛)で、細井日達に提出しています。ところがこれ以降も何度となく創価学会は妙信講と対論せざるを得ない状況にあったようです。


創価学会が「52年路線」に転轍することになったのは、池田氏の考え方もあり、在家主義的な色彩を強め、大石寺そのものを実質的に創価学会の儀典部扱いにしておきたかった故かと思いますが、その背景として「戒壇論の変更に伴う妙信講の異議申し立てを好機に」「宗門の権威を同会に認識させ、政治的に牽制しようとする意図」が大石寺側にあり、そこから創価学会側が自立化を図ろうとしたという推察は、それなりの説得性を有していると私には思えます。