気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」







いつもみなさん、ありがとうございます。


さて何度となく、このブログで指摘していることですが、日蓮法華経や一念三千の理解等、天台教学の理解は、天台智顗からというより、妙楽湛然から摂取したものと考えられます。


「龍樹の空と日蓮の一念三千」


「『一代聖教大意』から見る日蓮の一念三千説の理解」


妙楽大師・湛然は中国天台宗6祖であり、天台中興の祖とされます。湛然によって天台教学はきちんと整理されたという事績はありますが、問題は湛然の教理化が智顗の思想と一致しているのか否かということです。



日蓮の天台教学理解は、湛然に依拠しているあまり、本来の智顗の止観を歪んで解釈しているのではないかというのが私の素朴な疑問です。


さて前置きが長くなりましたが、ここからが本題で、御本尊の両肩に書かれた次の二文についてです。


「有供養者福過十号」
「若悩乱者頭破七分」


実はこの二つ、法華経からの引用ではなく、天台智顗でもなく、実は妙楽湛然の『法華文句記』からの引用です。
このことは大石寺の『大白法』でも指摘されています(『大白法』平成10年11月16日)。


日蓮法華経解釈は、天台の法華三大部であり、その注釈として有名な湛然の『法華文句記』『法華玄義釈籤』『摩訶止観輔行伝弘決』を依拠としています。



ところでこの二つの文章、『御本尊七箇相承』では「之を書く可し」(富要1-32)とされていますが、なんと肝心の戒壇本尊には書かれていません(笑)。嘘だと思ったら奉安堂に行ってみてください。見事に書かれていません。
もっと言ってしまうと、日蓮の本尊には書かれているものも書かれていないものも両方存在しているんですね。



法華経理解を湛然に求め、それを絶対としてもそれらは信仰の自由ですが、単なる天台教学に過ぎません。湛然の天台宗を再興させた中興の祖としての功績を私は決して否定するものではありませんが、もしも本来の一念三千とか、智顗の思想を語るのであれば、私は日蓮の多くの湛然由来の教義から決別するべきかと思います。