気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

国家主義の日蓮は創価学会には都合が悪い?




いつもみなさん、ありがとうございます。


さてTwitterで、宗教学者島田裕巳氏が以下のように呟いていました。



折伏顕正会の方が熱心です。創価学会はあまり折伏をしていませんね。今、創価学会員は日蓮に関心がないんじゃないんでしょうか。」


私は「布教」という意味合いで「折伏」という語を使うのは、日蓮真蹟と用例が違うという理解であり、「折伏」を「布教」の意味では用いない立場にありますが、あえて言えば、現在の創価学会顕正会のような布教活動に熱心ではないというのはよくわかります。



その意味で不特定多数に入会を迫り、布教活動に熱心なのはむしろ顕正会です。本家の大石寺はどちらかというと創価学会組織の切り崩しばかりにやっきになり、一般の方への布教活動はほとんどできていません。



さて私が島田裕巳氏の発言で最も気になったのは「今の創価学会員は日蓮に関心がないのではないか」というところです。
この指摘は当たっていると思います。



というのは先日の記事で日蓮と国家の問題を扱いましたが、日蓮の真蹟を丹念に読めば、その思想は国家への諫暁であり、国家の持つ宗教の問題を論じ、公上対決で雌雄を決しようとする日蓮の宗教観が浮かび上がってきます。
すなわち日蓮の本来の思想は時代的な制約があるとはいえ、極度の国家主義なのであって、そのことは「民衆仏法」を標榜する創価学会にとって若干都合の悪い史実なのです。



私は創価学会が「民衆仏法」を標榜するのならば、それはそれで自由で構わないと思うのですが、その前提として日蓮の行き過ぎた国家偏重の思想を検証批判すべきかと思うんですね。
ところが、創価学会は自分たちが日蓮の正統であることを謳っている。私などからすれば大石寺と同様、「日蓮の正統」とか「血脈相伝」なんてもの自体が信頼の置けないものなのですが(笑)、今の創価学会はそういった日蓮の思想の検証批判をうやむやにして、オブラートに包んで「民衆仏法」などと言っているからこそ始末に負えないのです。



創価学会員はよく「『立正安国論』では『国』の字が『くにがまえに民』の字で書かれている。これこそ日蓮が民衆仏法である証拠」などとまことしやかに語ったりしますが、『くにがまえに民』という字は『貞観政要』からの引用とも言われています。それに「民」という字は象形文字であり、創価学会員さんはその由来を果たしてちゃんと知っているのでしょうか?


「民」という字の由来は「両目に針を刺されて見えなくなっている奴隷」の意味です。戦に敗れて奴隷として仕えた者たちが逃げられないように目を潰されている、多くの民衆がそのような状態にあったからこそ「民」という文字ができたのです。「民衆が中心」という思想を表現するならば、そもそも「民」という文字は使うべきではないのです。単なる奴隷の意味です。



いい加減、教団が提示するいい加減な教義に気づき、日蓮思想の限界にきちんと目を向ける時に来ているかと私などは思います。