気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

私は如是相という語を使わない。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会員さんや法華講さんは他者を批判される際に

「あの人は如是相が悪い」

等、言ったりすることがあります。



実は私はこの言葉が好きではありません。
要するに体良く他人を見た目で判断しているだけかと思うんですね。


鳩摩羅什による漢訳法華経は、方便品に諸法実相として十如是が説かれますが、そもそもサンスクリット原典には5種類しか存在していません。それを鳩摩羅什が10種類に拡大解釈し、これにより智顗の教学も起こっています。


鳩摩羅什や智顗の説に依拠するならまあそれはそれでも構いませんが、そもそも羅什訳では「如是本末究竟等」とされているのに、どうして第1番目の「如是相」を基本的な評価の基準にするのかが私には今ひとつ理解できません。
むしろ鳩摩羅什の考え方に寄り添うならば、如是相から如是報までの9の如是が究極的には無差別平等であることを指しているのであって、それなら何も見た目で人を評価するのは、鳩摩羅什の考えとは異なるのではありませんか?


そもそも人を見た目で判断しようとする姿勢が私には高飛車に感じられますし、私自身そのような姿勢で他者を評価しようとする人たちと関わりたくはありません。



相手を見た目で判断して評価すれば、天に唾する者として、今度は自身が見た目で他者から評価されることになるのではないでしょうか。