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創価学会の非活メンバーによる語り

「作礼而去」について。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて本日は鳩摩羅什による法華経の改竄についてです。


ご存知のように原典の法華経『サッダルマ・プンダリーカ』は漢訳が複数存在していまして、全訳が存在するのは次の3つになります。


3、闍那崛多『添品妙法蓮華経


このうち鳩摩羅什法華経が巷間に流布されることになるのですが、実はこの鳩摩羅什訳、サンスクリット原典からかなり飛躍された訳になっていることは以前から指摘している通りです。
具体的には本来最期の章節であったはずの嘱累品が鳩摩羅什訳では22番目に配置され、普賢品が最後になり、いわゆる「二処三会」の原理が作り出されているという点は以前にブログで書きました。


「二処三会は存在しない」

「本来の法華経の構成」


つまり鳩摩羅什は末尾にあった嘱累品を「強引に」22番目に持ってきて、そこでいったん「虚空会の儀式」を終わりにさせる展開にしています。本来サンスクリット原典を読む限り、虚空会の儀式は最後まで続いていたはずなのですが、鳩摩羅什の訳ではそれが途中でいっぺん終わってしまい、地上での説法になるという不自然な構成になっています。



さて前置きが長くなりましたが、ここから今日のテーマです。
実は鳩摩羅什の構成では、最後の章節になるのは普賢品第28(普賢菩薩勧発品「サマンタ=バドラの鼓舞」)ですが、この末尾に鳩摩羅什が「作礼而去」(さらいにこ)等々の一節を恣意的に付加しているのです。


サンスクリット原典の末尾の文は以下のように終わります。


「この『サマンタ=バドラの鼓舞』という章が説かれている間に、ガンジス川の砂の数にもひとしい、幾千万億という偉大な志を持つ求法者たちは『幾千万億回も回転する』という記憶力を得た。」
(『法華経』下、岩波文庫版、335ページ)


これに対応する鳩摩羅什訳出部分は以下のようになります。


「説是普賢。勧発品時。恒河沙等。無量無辺菩薩。得百千万億。旋陀羅尼。三千大千世界。微塵等。諸菩薩。具普賢道。」
(同334ページ)


ところが、不思議なことに、この後、鳩摩羅什法華経普賢品はまだ続きます。次は原典にはない鳩摩羅什による付加部分です。


「仏説是経時。普賢等。諸菩薩。舎利弗等。諸声聞。及諸天龍。人非人等。一切大会。皆大歓喜。受持仏語。作礼而去。」
(同334〜336ページ)


簡単に訳すと

「仏がこの経を説かれた時、普賢等の諸々の菩薩、舎利弗、諸々の声聞、天龍、人、非人等の者たちは皆大いに歓喜して、仏の言葉を受持して礼をして去った。」


という部分が意図的に付加されているのです。
つまり、本来最終節ではない普賢品を強引に終わりに持ってきた結果、原典の文のみで終わるのが不自然になり、鳩摩羅什が意図的に「作礼而去」等々の一節を恣意的に書き加えてしまっているということです。


ですからサンスクリット原典には「作礼而去」の一節は存在しません。
ところで『御義口伝』には以下のような一節があります。


「然る間還つて己心の仏を礼す故に作礼而去とは説き給うなり、彼彼三千互遍亦爾の釈之を思う可し秘す可し秘す可し唯授一人の相承なり、口外す可らず然らば此の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり」
(学会版御書783ページ)


「作礼而去」の一節についての「唯授一人の相承」とまで言われる口伝があるとしているのですが、この一節は本来サンスクリット原典には存在しない、鳩摩羅什の恣意的な付加なのであって、教義の再考が必要になろうかと私は思います。





追記:
上記法華経の漢訳鳩摩羅什版については、坂本幸男訳の岩波文庫版を参照しています。鳩摩羅什の普賢品については、いちおう創価学会版の『妙法蓮華経並開結』(聖教新聞社、2002年)も対照して見てみましたが、文節の区切り以外大きな相違は見られませんでした。当該の箇所は創価学会法華経開結では677〜678ページになります。