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さて今回は「弥四郎国重」についてです。
ところで、この「弥四郎国重」という人物が何者なのかという見解が大石寺の歴史では一貫していないんです。
日精と日量の見解では「弥四郎国重」は「波木井三郎実長の嫡男」とされています。
以下に引用してみましょう。
「南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主なり」
「同二年弥四郎国重なる者一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり、霊瑞に感じて良材を得以て蓮祖に献ず」
この大石寺の見解が変化するのは明治に入ってからで、明治11〜12年(1878〜1879年)にかけて行われた問答で、北山本門寺34世玉野日志の問いに対して大石寺52世鈴木日霑がその答えに窮して以降のことです。
その後、どういうわけだか「弥四郎国重=波木井実長嫡男」説は言われなくなってしまい、次に浮上したのが「弥四郎国重=熱原の神四郎」説です。
そもそも「弥四郎国重」とは誰なのか、なぜ「本門戒壇の御本尊」が相伝されて伝わっていると言いながら、その願主の素性について、年代によって法主の見解が変わるのか、正しく伝わっていないのか、正しく伝わっていないとすればそれはどういうことなのか、それらを説明する義務が大石寺にはあるかと思います。