気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

弥四郎国重は誰か。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は「弥四郎国重」についてです。




大石寺の奉安堂にある、いわゆる「戒壇本尊」には「本門戒壇之願主弥四郎国重」と書かれています。
ところで、この「弥四郎国重」という人物が何者なのかという見解が大石寺の歴史では一貫していないんです。


「弥四郎国重」に言及した、遡れる中で最も古い文献は大石寺17世日精の『日蓮聖人年譜』です。これと同48世日量の『富士大石寺明細誌』での見解は実は一致しています。
日精と日量の見解では「弥四郎国重」は「波木井三郎実長の嫡男」とされています。
以下に引用してみましょう。


「南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主なり」
(日精『日蓮聖人年譜』富士宗学要集5-127ページ)


「同二年弥四郎国重なる者一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり、霊瑞に感じて良材を得以て蓮祖に献ず」
(日量『富士大石寺明細誌』富士宗学要集5-320ページ)


日量の『富士大石寺明細誌』が書かれたのは文政6年(1823年)ですから、時代的には明治以前、江戸時代くらいまで、大石寺では「弥四郎国重」を「波木井三郎の嫡男」と捉えていました。


この大石寺の見解が変化するのは明治に入ってからで、明治11〜12年(1878〜1879年)にかけて行われた問答で、北山本門寺34世玉野日志の問いに対して大石寺52世鈴木日霑がその答えに窮して以降のことです。



その後、どういうわけだか「弥四郎国重=波木井実長嫡男」説は言われなくなってしまい、次に浮上したのが「弥四郎国重=熱原の神四郎」説です。
昭和31年にも大石寺66世の細井日達は「弥四郎国重」について「熱原の神四郎」であるとする見解を述べています。



どうでも良いことですが、付言すると創価学会戸田城聖第2代会長は、この「弥四郎国重」について「己心中の弥四郎国重」(聖教新聞、昭和33年2月21日付)という、わけのわからない説明をしています(笑)。


そもそも「弥四郎国重」とは誰なのか、なぜ「本門戒壇の御本尊」が相伝されて伝わっていると言いながら、その願主の素性について、年代によって法主の見解が変わるのか、正しく伝わっていないのか、正しく伝わっていないとすればそれはどういうことなのか、それらを説明する義務が大石寺にはあるかと思います。
「弥四郎国重」の素性が法主によって、時代によって言っていることが変わっているとするなら、大石寺相伝というものは私にはまるで伝言ゲームくらいのレベルなのか?と穿った見方をしてしまいます(笑)。