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「三尊合行法」では左右に不動愛染を配して、中央に虚空蔵を置きます。
例えば『清澄寺大衆中』(真蹟曽存)では「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せしことを不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし」(学会版御書893ページ)とあるように、日蓮が立宗にあたって虚空蔵に願を立てたのは多くの創価学会員や法華講さんならすでにご存知のことでしょう。この『清澄寺大衆中』には「虚空蔵」の語が計3カ所存在します。
また『善無畏三蔵抄』(真蹟推定断簡)には「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云」(同888ページ)とあることからもわかります。
ただ日蓮が真言宗立川流の「三尊合行法」から影響を受けたとする仮説は、そもそも「三尊合行法」の成立年代を再検討しないと成立しない仮説です。推定ですが、文観(1278〜1357)の『三尊合行秘次第』の成立は1338年頃と考えられており、日蓮在世中のものではないことが明確です。
とすると、あくまで私の妄想に近い仮説ですが(笑)、真言宗立川流の創始者とされる仁観(?〜1114)が虚空蔵曼荼羅に関する行法をすでに立てていて、それをなんらかの方法で日蓮が摂取したことが仮説として考えることができるかもしれません。仁観に関する文献は後世の彼への弾圧によって失われてしまい、その全貌がほとんどわからない状態にあります。