気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

無量義経は偽経である。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて以前、私は『無量義経』が偽経の疑いが強いことを述べました。


無量義経への疑念」


以下に主に6点にわたり、『無量義経』が偽経であると考えられる理由を書いてみます。


1、『無量義経』の訳者とされる曇摩伽陀耶舎なる人物は中天竺沙門と伝えられるだけで、その他伝記が一切不明。また曇摩伽陀耶舎が『無量義経』以外にどんな経典を訳したのかも全く伝わっていない。

2、仏典中、他の経典に類例のない「菩提樹下端座六年」の記述が見られること。

3、初説四諦、中説十二因縁、次説方等という三時配当は、後世の教判者の説であり、矛盾すること。

4、内容が『法華経』の内容を再録したような印象があること。

5、大通3年(529年)没の法雲の『法華経義記』中でも『無量義経』を真説として認めていないこと。

6、法華経序品第一に説かれる「大乗経名無量義教菩薩法仏所護念」の訳語「無量義」の原語 Maha-nir-desa は「無量に分別されるもの」を意味していて、文脈に即せば、これは「無量義経を説いた」のではなく「教と理とは一実相の発露であり、無量である」ということを説いているということ。



以上の6点から、私は『無量義経』を偽撰と判断することが自然なことであると思います。
とりわけ6点目の無量義の訳語マハー・ニルデーシャの原語の意味については、岩波版の訳者である坂本幸男氏も萩原雲来氏と同意見に立たれており、この字義について注で以下のように説明しています。

「世親の法華論に、法華経の十七名が出ているが、その中の三名に当る。第一の『無量義』とは、教と理との無量を指し、法華経の諸法実相の一から無量の法を出生する意味。」
岩波文庫版『法華経』上、327ページ)。


現在でもこれらの論点を覆す研究は出ておらず、現況では『無量義経』は中国撰述の偽経であるとすることが妥当な判断であると私は考えています。






参考文献:

横超慧日『無量義経について』印度学仏教学研究第4号、1954年。