気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

偽りの教義。




いつもみなさん、ありがとうございます。




さて先日、私はブログで『御義口伝』が偽書であることをすでに指摘しました。


大石寺写本『御義口伝』の改竄」


ところが、日蓮の教えを『御義口伝』を根本だと信じ込んできた人たちはこのブログ記事に何も言えなくなってしまいます。
事実として日蓮滅後13年後に編集刊行された徐行善の『科註妙法蓮華経』が正確に引用されている時点で、この『御義口伝』がすでに日蓮の口述でも何でもないことは明白であり、『御義口伝』など単なる偽書に過ぎません。最古の写本など日蓮滅後200年以上経過したものしか存在しておらず、しかも大石寺の写本は上巻のみしか存在しません(下巻は京都要法寺にあります)。


こういった事実を指摘されても、『御義口伝』や、また池田大作の『御義口伝講義』で自身の教義を構成してきた人たちは、冷静な反論ができなくなっている方が多いです。
そもそも真蹟遺文中には「本覚」の語も「無作三身」の語もともに1箇所も出てきません。
真蹟中に存在していない語が多用され、しかも日蓮滅後の文献が引用され、最古の写本が日蓮滅後200年後のものしか存在しない。それはもう偽書と判断するのが自然でしょう。



ところが、長らく創価学会やら大石寺の信徒をやってきた方はここを否定することができません。明確に反論もすることができず、自身の思想の前提を問い直すこともできません。
確かにそれを問い直すことは痛みを伴います。今まで信じてきたものの全否定になるからです。私も悩みました。
けれどそれができた時に初めて、真に創価学会やら大石寺の呪縛から解けて、自由に思索できるのだと思います。



痛みに目を背けて、偽りの教義で満足し、自己を見つめることができない方が創価学会にも大石寺信徒さんにも多いように感じています。