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創価学会の非活メンバーによる語り

随縁真如の智について、その2。

いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日の記事でも書いたように、「随縁真如」という言葉は元来日蓮の用語ではなく、華厳宗法蔵の起信論教学であって、その教えが天台宗の中に入ったものです。日蓮が理解する「随縁真如」とは湛然の天台教学の影響から最澄の『守護国界章』で用いられていたものかと考えられます。


そもそも先日の記事でも書いたように「随縁真如」の語が使われる日蓮遺文は『立正観抄』『御義口伝』『御講聞書』の三つのみであり、三つとも真蹟は不存です。それ以外の御書には用いられない表現です。


そんなものをあたかも日蓮の思想であるかのように無批判に受け入れて語るのは信仰者としての誠実さに欠けていると私は思います。
「随縁真如」を日蓮の思想として語るのは回避すべきでしょう。


そもそも「真如」という概念を「不変真如」と「随縁真如」の二つに分けて考えるのは最澄の『守護国界章』に見られる日本天台宗の教えです。日蓮のオリジナルの教えでも何でもありません。
具体的に書きますと、最澄の『守護国界章』には以下のような記述が存在します。



「一迷真異執教、当彼凡夫。二真一分半教、当二乗。三真一分満教、当彼初心菩薩。四真具分満教、即当彼識如来蔵者。初教、謂諸外道、迷於真理、広起異計算。二謂小乗。於真如随縁不変二分義中、唯説生空所顕之理。故名為半。如涅槃半字。三謂、但得不変不得随縁。故名一分、而双弁二空。故名為満。四由具随縁不変二義、故名具分。広如彼説。然今判聖教、那参邪説。」
最澄『守護国界章』伝教大師全集2-193〜194ページ)



すなわち真如に対する考え方として、それが真如の「不変」を説くだけでは不十分であって、真如随縁になって初めて完全になるとするのが最澄の真如理解です。すなわちこれは天台宗の教えなのであって、日蓮のオリジナルの教えではありません。


検証もなく「随縁真如」という語を用いて宗教的な真理を語ることも思想上の自由ですけど、それが本来は華厳宗法蔵の考えなのであって、湛然や最澄に見られる天台宗の教義でしかないことを、創価学会員さんや大石寺信徒さんはきちんと認識されるべきかと私は思います。



参考文献:
蓑和顕量「最澄の真如理解」、『印度学仏教学研究』第40巻第1号所収、平成3年12月。