いつもみなさん、ありがとうございます。
さて日蓮の『唱法華題目抄』には「利根と通力とにはよるべからず」(御書16ページ)とされているにもかかわらず、どういうわけだか、創価学会員さんも大石寺の法華講さんも顕正会さんもみーんな「現証」で語りたがります。
だから私には「本部幹部会の大晴天」とかを祈る、その感覚が理解できません。
そういう超常現象みたいなもので宗教の浅深を計ることは私にはどうでも良いことなのです。
そんなことを言ってしまえば、じゃあ原田会長さんがメキシコに行った後に地震が起こりましたから、じゃあこれは「仏罰」かと(笑)。
いい加減、そういう感覚をやめにしませんか?
私は宗教の浅深を、単なる現証面から判断することを好みませんし、そんなことをしていればいずれ現証面から批判されることになります。
現証というのは、結果としてそうなっているだけのもので、それだけを根本にするなら、別段、文献的な検証など必要ないことになるでしょう。