気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

正本堂の意義の両者の共通理解。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて昨日書いた「顕正会について」の続きを書きたいと思います。今回は「正本堂の意義づけについて創価学会と妙信講が同意に至った、その共通理解について」です。浅井甚兵衛氏と浅井昭衛氏、そして和泉覚氏たち当時の創価学会首脳部が互いに何を認めて、何に同意したのかという点ですね。
すでに大石寺の正本堂は解体されて存在しませんから、まあどうでもよいことなんですが(笑)、いちおう教義的な同意事項について書いてみます。



先日書いたように、妙信講(顕正会の前身)は正本堂建立に対して昭和45年9月11日にいったん創価学会と和解して同意しています。

昨日の記事から引用してみますと

「正本堂は三大秘法抄、一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない。」

ということです。


当時の私と私の父らの理解ではこういうことでした。


1、正本堂には「おしきみ」を置かない。「おしきみ」は広宣流布が達成された時に供えられる。
2、広宣流布の時になると、大石寺は「本門寺」に名前が変わる。
3、その際に正本堂は「戒壇堂」になる。
4、広宣流布がされた、その時の法主は第3祖日目の再誕である。


ということです。
なんともはや、信仰をされていない方から見れば不思議な教義ですけど(笑)、当時の私と私の両親はそのように考えていました。



実は昭和40年頃まで、当時の池田会長は大石寺への「正本堂」建立寄進とは別に「戒壇堂」を考えていました。つまり当時の池田氏の理解では「正本堂」は「戒壇」ではなかったのです。


ところが、その後、細井日達氏が『百六箇抄』の「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」(御書867ページ)ということから、「正本堂」が将来的に広宣流布された時に「本門の戒壇」になるという解釈をしたんです。


まあそういう理解を当時していたわけで、顕正会はその教義について昭和45年にとりあえず共通の見解に立っていたのだと言えます。