気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

「新聞啓蒙」という言葉。





いつもありがとうございます。
さて聖教新聞の営業販売のことを創価学会の会員は「新聞啓蒙」と呼んでいます。
実は私はこの「新聞啓蒙」という言葉が好きではありません。特に活動をやめてからはほとんど使ったことがありません。


そもそも「啓蒙」ってどういう意味なのか、現場の会員はご存知なのでしょうか。
辞書で引くと「啓蒙」は


「無知の人を啓発して正しい知識に導くこと」


という意味です。


なんという上から目線(笑)。
ですから「啓蒙」という言葉を使う時点で、私は「あなたに教えてあげよう」という上から目線の意識をとても感じたものです。
私はそういう姿勢を好みません。だから非活になってから一番好きではない語になりました。今はあまり使わないようにしています。ただ会員には「新聞啓蒙」と言った方が話がすぐに通じるので使うこともありますが、できればこの「新聞啓蒙」という言葉を私は使いたくありません。


だいたい「新聞啓蒙」をする側がどれだけ仏教を真摯に学んでいるのでしょうか。自身に学問的な蓄積があり、聖教新聞の内容に参考にすべき知見があれば、その説得力があるというものですが、現在の聖教新聞のどこにそんな魅力があるのでしょうか。
御書を紹介してもたかだか2行か3行の遺文の切り貼り(多くは真蹟不存で日蓮の真作なのかどうかさえわからないもの)で、せいぜい現場で使われている語の解釈に過ぎません。新しい発見も何もないのに、それで「世界一の生命哲学」なんて自画自賛


そもそも「啓蒙」という言葉の例文を考えると以下のような感じです。


「無知な人々を啓蒙する。」
「教え子は先生の指導に啓蒙された。」


さて現在の聖教新聞で、何か他人に「啓蒙できる」ことってあるのでしょうか。
私はその考え方そのものが好きではありません。簡単に言ってしまうと「啓蒙」とは「教えてやろう」という姿勢のことです。


私は誰かに「教えてやろう」なんて思いません。私がいつも考えているのは「教えてほしい」「学びたい」ということです。だから私は「新聞啓蒙」という言葉を使いたくないのです。けれど多くの創価学会の活動家は私の思いさえ推し量ることができないのかもしれませんね。