いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は以前に書いたことなのですが、『日興跡条条事』に書いてある「大御本尊」が、果たして本当に弘安2年・戒壇本尊のことを指しているのかという検証です。
よく大石寺の法華講さんが言われるのは、「日興跡条条事』という書であり、日興から日目に相伝されたと言われています。この中で「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に◯◯◯◯之を授与す、本門寺に懸け奉るべし」(宗学全書2-134)と書かれています。
次に問題点をあげます。
大石寺17世日精の『家中抄』の見解です。
大石寺17世日精の『富士門家中見聞』(よく『家中抄』と略されます)には次のように書かれています。
「又弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此ノ年に大漫荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云フは是レなり、日興より又日目に付属して今房州に在り」
(富士宗学要集第5巻、154ページ)
で、このことは実は『富士年表』にも記載されていまして、大石寺側も記録として「弘安2年に日興に万年救護本尊が与えられた」ということを公式に認めています。
※「富士年表」
(弘安2年の項目を見るとを日興に文永12年12月の本尊(万年救護本尊)を賜う」と書かれているのがわかります。
仮に『日興跡条条事』を日興真蹟であることを認めても、そこに書かれた「大御本尊」とは17世日精の見解では戒壇本尊ではなくて、「万年救護本尊」ということになるのです。
追記:
参考に
「万年救護本尊について」