気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

教義は変えるのか、変えないのか。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて創価学会本部は2014年会則改正し、教義を変更しました。
まあそれはそれで構わないと思うんですが、そもそも1995年に当時の秋谷会長が「日蓮正宗の教義を変える必要はない」という趣旨の発言をしています。
ですから教義を改正されるなら、この1995年の秋谷さんの発言は何だったのかということが曖昧にされていると私は思います。
以下に秋谷さんの発言を載せます。




日蓮正宗の教義を信仰するということでは、 
私どもは今、日蓮正宗とは現実に関係を絶っている。 そもそも日蓮正宗日蓮大聖人の仏法の本義を正しく伝えるがゆえに、 宗旨の今日があるはず。 だが、現実には僧侶の堕落によって大聖人の正義が保たれていない。腐敗している。 
これを改革して大聖人の本義にもどさなければならないというのが私たちの立場だ。つまり大聖人の仏法の正義を日蓮正宗の教義とするなら、それを正しく堅持し、伝えているのが創価学会だと確信している。従って『日蓮正宗の教義』という文言を変更する必要はないと考える。」 
(1995年12月4日、参議院宗教法人等特別委員会にて、参考人として秋谷栄之助氏の発言)





つまり宗創問題について、95年当時、創価学会としては「大聖人の本義」を正しく伝えているのは創価学会であるという立場だったはずです。だから教義を変えなくても良いという判断だったんですね。
ところが、2014年に教義が変更になります。





創価学会は、大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために、宗門と僧俗和合し、弘安2年の御本尊を信受してきました。


しかし、宗門はいつしか堕落し、衣の権威を笠に着て信者を蔑視し、創価学会を破門する暴挙に出ました。さらに法主詐称者の出現によって、永遠に法主が不在 となり、宗門のいう法主の血脈なるものも断絶しました。大石寺はすでに大謗法の地とかし、世界広宣流布を目指す創価学会とは全く無関係の存在となったのであります。

魂の独立以来、学会員は皆、大石寺に登山することなく、弘安2年の御本尊を拝することもなかったわけであり、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えて絶大なる功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのです。まさに、これが会員が実践し、実感しているところなのであります。

創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。
したがって、会則の協議事項に言う『御本尊』とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います。
」
(原田会長、全国県長会議より、聖教新聞、2014年11月8日付)




これまで日寛上人の教学に基づいて、『一大秘法』や 『六大秘法』ということを使用してきたが、『一大秘法』が 『本門の本尊』であるという日寛上人の解釈は、御書にはない。
御書に『一大秘法』と教示されているのは、『曽谷入道殿許御書』のみである。そこでは、『妙法蓮華経の五字』(御書1032頁)を一大秘法として明かされている。
以上のように、日寛上人が用いられている三大秘法を合した『一大秘法』、また、三大秘法を開いた『六大秘法』という表現は、御書そのものには説かれていない。
これまで学会では、日蓮正宗の教義解釈を尊重し、『弘安2年の御本尊』を根本の本尊とする、との日寛上人の解釈を採用してきた。
日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。日蓮正宗が完全に大聖人の仏法に違背した邪教と化した今、学会は正統の教団として、世界宗教にふさわしい教義の確立という立場から見直しを行っていく。
その意味で、日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない。」
創価学会教学部「会則の教義条項改正に関する解説」聖教新聞、2015年1月29日付)



私は別に教団が教義を改正することを否定しているのではありません。自分たちの教義は自分たちで変えて然るべきです。
私がここで問題にしたいのは、1995年の秋谷氏の発言に見られるように創価学会は当時「大聖人の本義を伝える」正統を主張し「日蓮正宗の教義の文言を変更する必要はない」としていたにもかかわらず、教義変更に関する釈明が原田会長の発言にも教学部解説にも見られないということです。
言い方悪く言えば、要するに「時代的要請」があれば、教義なんてのはどんどん変えればよいと、過去にあった発言なんてのはどうでもよいんだと、そういう姿勢に見えてしまいますよね。少なくとも私にはそう感じられます。