気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

本質の空性の受容と非受容。

いつもありがとうございます。




さて私は「法とか存在の本質は空なのだけど、人間は虚としての本質を求めざるを得ない」と考えています。
なぜそう思うか、それはそういった虚構を価値として捉えて生きようとしているんですね。



例えばお墓参りのことを考えると、お墓の中には故人の遺骨しか残ってはいません。けれどお墓参りをした遺族の方は墓石に向かってお水をかけたり、話しかけたり、墓石を掃除したりするんですね。
そこにあるのはただの墓石と遺骨だけです。故人は亡くなって存在していません。けれど遺族はその墓石とか遺骨とかその場所に故人の本質を見ようとするんですね。


それを喝破して例えば「貴方が拝んでいるのはただの墓石だ」と暴露したとしましょう。けれど彼らはその意見を受け入れないでしょう。それはなぜかと言えば、彼らは墓参りの中に故人の本質を見ようとしているのであって、その本質を否定することは彼らの生活を否定することだからです。



だから翻ってみれば、私が一切の法の常住を否定するのを受け入れない人も多いと思います。それは心情的に理解できます。私自身、戒壇の本尊が偽物であるとか当初俄かには信じられませんでしたから。



だから段階があってよいし、その人なりの考え方の推移とそのスピードに違いがあってもよいと思います。
認めると認めざるとにかかわらず、本質は虚構でしかないのですが、それを求めざるを得ないのもまた人間なのかと思います。