気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

国家主義等の概念の固定化。

いつもみなさん、ありがとうございます。

さて今日はTwitterで少し前に呟いた「国家主義」や「共産主義」みたいな思想の分類についてです。内容的には2017年8月8日に呟いたツイートを編集してこの投稿記事にしてみました。





ところでアーノルド・トインビーは国粋主義共産主義を広義の宗教であると考えました。だから私は国家主義は一つの宗教と捉えています。
郷土愛や祖国愛は自然なものですけど、形式としての国家なんて単なる幻想に過ぎないと思いますね。日本という国がなくなったって私は何も気にしませんし。


そもそも永遠に続く国家なんて世界史を見ればどこにも存在しないし、純粋な日本人なんて混血が進んでしまい、そんなものは存在しません。日本人とか中国人とか呼ぶものは便宜上の分類に過ぎないわけで、E・レヴィナスが『全体性と無限』で指摘したように、ただ在るのは個々の人間だけですから。


「国家が大切だ」ということを声高に叫ぶ主張って、所詮「戒壇の御本尊が絶対だ」とか「永遠の生命の法の実在」なんかを叫ぶどこかの原理主義的な宗教人の意識と本質的になんら変わりないと思っちゃうんですね。



だいたい「国家が大切だ」と主張される国家主義の方の多くが「日本という国がなくなってもいいのか」と言われますけど、私など別に日本なんて国がなくなっても構わないし、別に困りません。アメリカの51番目の州になったって、中国の一つの自治区になったっていいでしょう。そもそも沖縄は本来琉球という別の国家だったはずですから、その意味では日本は琉球という国の主権を歴史的に奪っているとも言えるでしょう。沖縄語は本来日本語とは全く起源の異なる別言語ですけど、本島の人たちの移住と日本語の使用によって沖縄語はほぼ失われかけていますね。明治以降のアイヌ人の問題もそうです。
世界史はそんなことの繰り返しです。「日本」という国の絶対性を主張するなら、どうして琉球アイヌの主権を奪っておいて言えるんですかね。そもそもその人たちは純潔な日本人なんて言えるのでしょうか。日本人は渡来人の来日以降、混血も進み、純粋な日本列島の民族など存在しないと思います。



ですから私たちは常に概念の権威化・全体化の過程を免れ得ないんです。だからあたかも「日本人」が存在するとか「日本」という国家が存在するとか勘違いするんですが、そんなものは共同幻想に過ぎない。その思想的な陥穽を乗り越えない限り、人はカルト宗教にハマる事態を回避できないでしょうね。



例えば「共産主義」を考えてみれば、共産主義そのものも一つの固定化された思想に過ぎない。マルクスは元来共産主義を構想したわけではないし、そもそも共産主義を構想した最初はサン=シモン、シャルル・フーリエです。
概念の権威化・分類学によって全てを理解しようとする傾向を私たちはなかなか否定できないんです。



で、そういった概念化・分類化の有効性を否定したのが仏教の空観であって、智顗の一心三観に有効性があるとすれば、実はその点なんだと思うんですね。湛然はそのことを理解していた可能性もありますが、だからこそ私はむしろ龍樹まで遡って考えるべきだと思うんですね。


私はブログで湛然を「一念三千を固定化・教理化した人物」として批判している傾向がありますが、実はこれは誤りかもしれず、湛然は智顗の思想を理解した上であえて教理化した可能性も否定できないと思うんですね。だからこそその確認のためにも龍樹の理解は欠かせないと考えています。