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創価学会の非活メンバーによる語り

中論を読む(7)第1章の6





みなさん、いつもありがとうございます。
さて今回はナーガールジュナ(龍樹)『中論』第1章の第6節を考えてみたいと思います。




naivasato naiva satah pratyayo 'rthasya yujyate 
asatah pratyayah kasya satas ca pratyayena kim


「ものが有るときにも、無いときにも、そのものにとって縁は成立しえない。ものが無いときには、縁は何ものの縁なのであろうか。またものがすでに有るときには、どうして縁の必要があろうか。」
中村元訳)


「存するものにも存しないものにも
縁はあり得ない。
どのような存しないものにも縁があろうか。
また存するものにとって縁は何の必要があろう。」
立川武蔵訳)



この第6節で龍樹は「存在するもの」にも「存在しないもの」にも「縁」が無いことを主張しています。
ただよく読むと「存しないもの」には「縁がない」ことを指摘しているけれど、「存するもの」については縁の「必要がない」ことを指摘していて、両者の否定にニュアンスの違いがあるんですね。


つまり存在とは関係性の差異から生まれるもので、各事項としての存在には積極的な意味性は存在していないということです。
例えば言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの『講義』から引用してみたいと思います。


「以上に述べてきたことは要するに、言語には差異しかない、ということに帰する。それだけではない:差異といえば、いっぱんには積極的辞項を予想し、それらのあいだに成立するものであるが、言語には積極的辞項のない差異しかない。所記(シニフィエ)をとってみても能記(シニフィアン)をとってみても、言語がふくむのは、言語体系に先立って存在するような観念でも音でもなくて、ただこの体系から生じる概念的差異と音的差異とだけである。」
(F・ソシュール『一般言語学講義』小林英夫訳、岩波書店、168ページ)


講義中の有名な一節ですが、ソシュールは言語記号の持つ内容の優位性を否定しています。つまり「そこにあるものを名指して言語にする」のではなく「積極的辞項を持たない差異の体系において初めて意味を私たちが見出す」ことを認めているんですね。



つまり「存在するもの」がそこに存在しているということは、縁としての差異性が周囲にあったわけで、それが「存在するもの」になると消極的辞項でしかなかったものが「存在」に昇華しています。したがって「縁」の必要性が自覚できず、あたかもそこに存在が存在するということが自明の理として考えられるということになります(もちろんこの事態は龍樹にとっては現実認識における一つの倒錯と考えられているのだとは思いますが)。


それに対して「存在しないもの」は、現時点で存在していないのですから、まだ「縁」を持っていない、つまり差異性の網の目にかかっていないので、存在に昇華できないでいる何かです。余談ですが、M・ハイデガーのリヒトゥングという概念は存在以前を存在の明るみに出すという考え方であり、龍樹の考える存在論と非常に近いと私は考えています。