気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

文証ということ。

いつもみなさん、ありがとうございます。




ところで日蓮門流、とりわけ大石寺門流や創価学会顕正会の信徒で文献的検証を否定し、「文証よりも現証をもって判断すべし」とする人がいますけど、それって『唱法華題目抄』の「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(学会版御書16ページ)という日蓮の言葉に背いているのではないのでしょうか。



例えば文証を優先すべしとした、その他の日蓮の御書を挙げてみましょう。


「此の事何れの経文ぞや文証の所出を知らず我意の浮言ならば之を用ゆ可からず」
(『法華真言勝劣事』122ページ)


「玄の三に云く『文証無きは者は悉く是れ邪偽・彼の外道に同じ』文」
(『真言見聞』148ページ)


「唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」
「又云く『文証無きは悉く是れ邪の謂い』とも云へり」
(『持妙法華問答抄』462ページ)


「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり、伝教大師の云く『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』文」
(『聖愚問答抄』482ページ)


「疏をつくられけるにも両方の道理・文証をつくさるべかりけるか」
(『衆生身心御書』1595ページ)


ですから日蓮は経文を純粋に読もうとして、経文をきちんと前提とすることを述べられているんですね。確かに現代の私たちから見ると日蓮法華経理解も十分なものとは言えず、少なからず曲解や誤解も多いかと思います。しかし日蓮自身は自身の宗教的な確信を持ちつつも経文にその準拠されるべき根拠を求めたのだと思います。


翻ってみるに、仮にも日蓮門流を名乗るのであれば、きちんと法華経なり経文や日蓮の遺文に即して考えるべきであり、それを軽視して「文証よりも現証なんだ」と主張するのなら、それは日蓮の心に背くものでしょうし、「言語道断」であり、「彼の外道に同じ」かと思います。