気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

『中論』を読む(6)第1章の5




みなさん、いつもありがとうございます。
今回の「『中論』を読む」は第1章の5節です。前回の縁と非縁との問題がここで少しわかるようになってきます。


utpadyate pratityeman itime pratyaya kila
yavan notpadyata ime tavan napratyayah katham


「これらのものに縁って生ずるのであるという意味で、これらのものが縁であると、人々はいう。しかし生じない限りは、これらのものはどうして〈縁でないもの〉でないということがあろうか。」
中村元訳)


「これらによって生ずることのあるとき、
それらは縁といわれる。
それらがまだ生じない時には、
どうして非縁でないのか。」
立川武蔵訳)


この部分に関して"apratyaya"なる語は中村元氏の「縁でないもの」よりも、私は立川氏の「非縁」の訳語の方がわかりやすかったです。


さて前回の第4節の説明でも少し書いたように「非縁」(apratyaya)とは縁以外のものをいうのではなく、「縁」そのものを「実在」と「非実在」とに分けた上で、後者の「非実在」の面を強調する意味があるのだと解されます。


ですからここで龍樹はそれらが「まだ生じない時には」実在の縁は存在しないということを述べています。後段の「どうして非縁でないのか」という表現は反語ですから「非縁である」と換言できます(中村元氏の訳では「〜である」という表現を実際に補足しています)。


「縁」によって存在が生じるのですが、その存在が実在するのか、それとも実在していないのかを立て分けて龍樹は考えていまして、それを説明するために立川武蔵氏は「縁」に対して「非縁」という訳語を採用したと考えられます。