気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

我見について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は「我見」について、書いてみたいと思います。


私はこんなブログを書いていますけど、応援してくださる方も多くとても嬉しいです。本当に感謝しています。
一方で批判される方も多く、それは思想上の相違として大いに結構かと思います。
ところで一つ気になっていることなのですが、私を批判される際に多くの方が「気楽非活さんは我見が過ぎる」というように批判するんですね。
結論から言ってしまうと、それは仏教上の「我見」という言葉を誤って用いていませんか?ということです。



検証してみましょう。「我見」という語は本来「我執」(アートマ・グラーハ)という語でありまして、仏教ではそれらの我執の克服が重要な課題であると考えられてきました。

自身に普遍の自我(アートマン)が存在すると主張することを「アートマ・グラーハ」(人我見)と呼びます。それに対して全ての存在に対して実体があるというのを「ダルマ・グラーハ」(法我見)と呼びます。


仏教はこの「人我見」と「法我見」の克服を一つの大きな課題と考えます。
ところで説一切有部は個々の自我について否定し「人我見」を乗り越えたと判断することができますが、彼等は法の実在、ダルマの存在については認めたんですね。龍樹が批判したのはまさにその点でして、龍樹はダルマそのものさえも縁という視点から克服を試みました。



ですから仏教において「我見」というのは「自我アートマンと法ダルマの実在に執着すること」を意味するのであって、それを「自分勝手に仏教を解釈する」というような意味で使うとすれば、それは本来の仏教の用例ではありませんし、ご自身が仏教というものに対して検証をされていないということかと思います。