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創価学会の非活メンバーによる語り

『中論』を読む(5)第1章の4




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回の『中論』紹介は第1章の第4節になります。



kriya na pratyayavati napratyavati kriya
pratyaya nakriyavantah kriyavantas ca santy uta


「作用は、縁を所有するものとして有るのではない。また作用は縁を所有しないものとして有るのではない。縁は作用を所有しないものではない。あるいは作用を所有するものとして有るのであろうか。」
中村元訳)


「作用は縁を有するものでもなく、
作用は非縁を意味するものでもない。
縁は非作用を有するものではなく、
作用を有するものでもない。」
立川武蔵訳)


この部分はやや難解なため、中村元氏の訳の次に立川武蔵氏の訳を載せました。
ここで龍樹は縁を「縁」と「非縁」とに分け、作用を「作用」と「非作用」とに二分しています。
立川氏の考え方に沿うなら、ここでいう「縁」と「非縁」とは全ての縁と縁以外のものを指すのではなく、全ての縁を分割した結果である「縁」は実在の縁すなわち存在が確立している縁のことを意味し、「非縁」とはその影すらない全くの非存在の縁のことです。
同様に「作用」はその存在が確立している作用のことであり、「非作用」とはその存在が確立されていない作用のことを表しています。



今回は説明に代えて、やや長くなりますが、立川武蔵氏の『中論』第1章の序の解説を少し引用したいと思います。私はこの立川氏の見事な説明に付け加えるべき言葉を何も持ちません。



「原則として中国人は、ものは存在するという前提で話をします。一方、彼らは、ものはあるように見えても壊れることがあるということは認めています。ものは存在するが、それは壊れて無となるものである。無となることはあっても、ともかく目の前に存在している。このように、ものはそのものは無となるが存在しており、存在していても無となる、と多くの中国人は考えます。このような矛盾的なあり方、相反する二面がもろもろのものにあるということを中道という傾向が中国仏教にはあります。
しかし、インド人は、少なくとも中観派の者たちはそのようには考えません。ものは存在するかのように見えるかもしれない。しかし、それは空性に至った経験のある者が人々のために言葉を用いて『ものごとが存在する』と主張している場合であり、空性においては真実にはものは存在しないのだ、と中観論者たちは考えます。つまり、彼等は何も存在しないということを究極的な立場として受け入れるのです。」

立川武蔵『中論一章訳注』2009年、愛知学院大学文学研究科講義より、『人間文化』第25号所収)