気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

自己の思想的陥穽に気づくこと。







いつもみなさん、ありがとうございます。

今回は私のブログに関して、メールにて過分な評価をいただきましたので、ご本人様の了解を得た上で、メールの内容を一部紹介したいと思います。





"こうした知的作業を楽しめるような気分になれたのは幸いです。
このブログを含め、いろいろな方の意見を拝見し、今の状態があるのだと感謝しております。

こうした議論については、学会員はついていけないのはもちろんなのですが、実は脱会者のかたも乗ってきません。
興味がないか、学会の思想は悪だ、と感情的に断ずるかの二極です。
実にもったいない。
自身が経験したことを分析して、こういうブログを見れば、人生がさらに豊かになると思うし、私は豊かになったと思います。

私は、会員をだまし続けている学会が嫌いで、悪の組織だと思いました。
憎んでも憎みきれないやるせなさ。

しかし、このブログを読んでいて、ふと
「俺も悪くないか?
文底とか、絶対的幸福とか、ご本尊とか、一般人が知らないことを自分が知っていることで優越感に浸りたかったのではないか?
祈れば幸せになれる、生命力が出る、というのにのって、人が努力のみによって困難を乗り越えることを価値が低いとおもっていないかったか?
あやしい、おかしいと思ったとき、実践の教学だ、という指導に乗って思考することを放棄しなかったか?
絶対的なものを持っている自分はえらくて、それがない相対的な世界に生きる人々は無駄な努力をしているのだ。と周囲を見下していなかったか?
人の話に耳を傾けるのが嫌だから、信心がある自分のほうがすごいんだ、正しいんだ、と思い込んでいなかったか?」

一切は移り変わり、絶対的なものなどない、というのは、空の思想でしたかね。
それを見て、私はこのように思いました。
そう思ったとき、学会に対する憎しみは消えました。
私は創価学会の教えを信じたのではない。
自分の価値を高いと錯覚するために信じたかっただけだ、と気が付いたのです。
そこに付け込まれた。

学会員にとって、このブログの最大の価値は、こうした自己に気が付くことができるということだと思っております。
内部の人間関係と活動に嫌気がさして、そういえば、言っていることおかしいし、ブログにも書いてあるから脱会しようというだけでもいいかもしれませんが、十分ではない。
客観性という地平に立って、哲学して、自己総括することで、初めて学会に対する憎悪もなくなり、心身ともに脱会できる。
そして、豊かな考え方と人間関係を手に入れられるための参考にこのブログはなる、と私は思っています。

「学会批判がしたいのではなく、自己を総括する意味でも、このブログを書いている」
という気楽さんの姿勢は、学会を憎んでいた私の世界像にも影響を与えたのだと思います。
池田哲学を日寛教学や儒教思想に集約したのも面白い視点でした。
確かにそうだな、と。)

ただ一つだけ学会員に酷なことを言いたいのは、
「昭和と違って、今はインターネットがある。
キーボードを数十回たたけば、創価学会が世間からどう見られているのか。
内部で何が起こっているのか。
本部が何を隠しているのかは、情報の真贋はともかく簡単にわかる。
それすらしないような人は創価学会があっていると思うよ」
ということですね。"


たとえば「創価学会に騙された」とか「大石寺の欺瞞に気づいた」と言って、口汚く罵って去っていくのも自由ですが、私はそういう人間にあまりなりたくありません。かつての私がそういう人間でしたし、今でもそういう性格がどこか残っているのかもしれません。
そうではなく、一切を総括して、もう一度虚心坦懐に一切を見直す。そういった作業が必要かと思うんですね。
当初、それは私自身の総括のために行ってきたことですけど、それが次第にこのブログの読者のためにもなってきているようです。もしそうだとしたら、私としてはとてもうれしいし、ありがたいことです。

創価学会員や大石寺信徒の一人でも多くの方が、自身の思想的陥穽に気づき、自己を総括できることをいつも願っています。