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創価学会の非活メンバーによる語り

龍樹の『中論』を読む(3)第1章の2



いつもありがとうございます。
さて今回もナーガールジュナの『中論』の読解です。今回は第1章の第2節です。



第1章第2節。

catvarah pratyaya heteur arambanam anantaram
tathaivadhipateyam ca pratyayo nasti pancamah


「縁は四種ある。原因としての縁(因縁)と、認識の対象としての縁(所縁縁)と、心理作用が続いて起こるための縁(等無間縁)と、助力するものとしての縁(増上縁)とである。第五の縁は存在しない。」
中村元訳)


「四つの確かな事実とは、理性と客観世界と存在の瞬間と
そして現に眼の前に見えている神にも似た現実そのものであり、更に第五番目のものが確かな事実として実在するということは決してない。」
(西嶋和夫訳)



普通は中村元氏の訳が一般的な解釈でして、ここでナーガールジュナは仏教における四縁を説いていると考えられます。これに対して西嶋氏はナーガールジュナの論から実在性を読み解く立場からかなり踏み込んだ訳をしています。


いろんな読みの可能性があることを、両者の解釈の違いが示しているように思いますが、私の立場は縁起、つまり関係性から存在の本質を見るものとしてナーガールジュナの立場を理解しています。


ここで四つの縁と中村元氏が訳しているものは、因縁と所縁縁と次第縁(等無間縁)と増上縁です。

「因縁」の因は原因に相当します。
「所縁縁」の「縁」とは依存を意味し、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が「色・声・香・味・触・法」と呼ばれる対象を条件として生起する場合の、条件の形式を指しています。通常は「縁縁」ですが、玄奘以降は「所縁縁」訳されることも多いです。
「次第縁」の次第とは「間がない」という意味で「無間縁」とも訳されます。これは直前の心の状態が消えることが次の心がおこる条件になることを言います。
「増上縁」の増上は支配または影響のことで、増上縁は一つの事物を成立させる上で、積極的、消極的に助けとなるという条件の形式のことです。


これらの四縁はアビダルマ以来の縁の四種類の分類ですが、ナーガールジュナは、この四種類の分類にかかわらず、原因と結果や実体概念、また主体と客体、時間や空間などが縁起の関係として扱われていきます。そしてナーガールジュナはそれらが相互依存的な関係にあり、その本質が空であるという結論に至ることになるのです。
つまり主体と客体との関係もまた相対的なものでしかなく、その本質はアプリオリに実体的に存在し得ない。存在の視点そのものが一つの記号的倒錯でしかなく、その本質を空として観ることになります。


谷川俊太郎の詩に「鳥は生を名づけない/鳥はただ動いているだけだ/鳥は死を名づけない/鳥は動かなくなるだけだ」という一節がありますが、そもそも生とか死を名付けて定義する存在が人間の本質ですが、それらは本質的に生と死という相違のあるうちに意味が存在するのであって、本来的にはその意味は「空」といえます。


カール・マルクスは『経済学批判要綱』で「フォークやナイフで食事をする消費は、爪や牙で生肉を貪り食う消費とは別の消費で」あり、「生産の様式によって消費の様式もまた生産される」と考えています。
つまり食事をするという価値は人間にあっては、もはや生体を維持するためのものではなく、「美味しいために食べる」であったり「交流のためにみんなて食べる」であったり、いろんな意味を持つものなのです。
記号があるゆえに、人間は自然から飛躍して別の存在になるのですが、それゆえに人間は記号という虚偽を纏って生きていることになります。