気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

龍樹の現代的意義。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて今回はなぜ私が龍樹の『中論』に着目するのか、その現代的意義を考えてみたいと思います。
『中論』を丹念に読んでいくと自立する概念は存在しないことになります。
例えば「愛」というものも「苦しみ」というものも相対的な概念でしかなく、それらは本質的に「空」であることになります。


日蓮の『総勘文抄』に「善に背くを悪といい悪に背くを善という」とありますが、これは本質的に善とか悪という概念はアプリオリには存在せず、相対的な記号概念でしかないということを意味しています(多くの創価学会員さんはこの引用の文を「悪との戦いだ!」のような意味に誤読していますが・笑)。


つまり自立した概念がない。観るものと観られるものとの関係もない。主体も客体もない。
お気付きの方もいるかもしれませんが、これはジャン・ボードリヤールの記号経済の考え方と基本なんら変わりません。



ボードリヤールによれば現代資本主義における消費は記号的消費に過ぎません。私たちは記号的価値を生み出して、それらを消費しているのですが、それらの内実は記号の相対的な価値でしかなく、ゼロ度でしかありません。ボードリヤールはここからマルクスの『経済学批判要綱』(グルントリッセ)の思想を接続し、「生産様式は同時に消費の仕方も生産する」というマルクスの言葉から記号論を読み込むんですね。


驚くべきはナーガールジュナの先見性で(それは同時に実は釈迦自身の先見性なのかもしれませんが)、彼の空観は縁起という相対的な関係性の中に存在の本質を考えるものであり、これらはもはやジャック・デリダの思想と近いのです。


西洋的な考え方は、基本ヘーゲル的な歴史観を持っています。つまり歴史は成長するものであり、西洋的民主主義には普遍性があり、より良い社会を作るために歴史が進歩すべきであるとするパラダイムです。
そのことが20世紀に入り、植民地主義を生み出し、二度の世界大戦、そして日本では15年戦争を呼んでしまったと思います。


もともとミシェル・フーコーが指摘したように歴史は単線的に発展するものではあり得ません。歴史はパラダイムの変転により、錯綜しつつ動いていくものだからです。


現代においてナーガールジュナを学ぶ意義というのは、ヘーゲル的な歴史観を廃した記号的世界観を補完するものだと私は考えています。