気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

石田次男の重用。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は戸田城聖会長が石田次男氏を重用していたことについて、少し書いてみたいと思います。


以前も昭和26年の青年部の陣容ということで関連する記事を書いています。今回はその続きのような感じで書いてみましょう。


「昭和26年の青年部の陣容」




昭和28年1月2日、男子部第1部隊長だった石田次男は戸田会長により小岩支部支部長に抜擢されます(妻の栄子も同支部の婦人部長になります)。
小岩はA級支部でしたが、折伏の成績は第7位と実際は低迷していました。前年の暮れに創価学会の公称世帯数は22,300、翌昭和28年の目標は5万世帯と発表されていました。戸田の会長就任から1年半で約7倍になったことになります。ちょうど戸田が健康を損ね始めた時期でもあります。


石田次男の小岩支部支部長の起用に関して、戸田会長は次のように語っています。



「富田君(前小岩支部長の富田作十氏のこと)は今迄実に良く働いた、全く見て涙ぐましい程働き続けたが、誰もこれについて行かない。地区部長も班長も誰も一緒にやろうという者が無かった。これを見て居た私も考え抜いたが今度は腹を実行に移した。私は昔から小岩を愛してきた、今もそうです、今日から次男支部旗を渡して、次男にやりたい放題のことをやらせる、誰もついて来なくても良い、俺と次男と二人で支部旗を握って起ったんだ、小岩に誰も居なくなって、俺と次男と二人だけになってもかまうものか。文京ではこんなことはいわなかった。しかし、小岩は事情が違う。常泉寺の門前に二人が支部旗を握って立てばそれで良いのだ。小岩は今日からそのつもりで居れ。…………小岩は貧乏人がたくさん集っている、班長、地区部長諸君はこれを機会に大いにガンバッて金をもうけなさい」
聖教新聞、昭和28年1月10日付)



戸田城聖という人の人事は大胆なものでした。その人事は完全に能力主義で、年齢や経験、入信の年数さえ全く考慮されていません。ですから戸田の人事は会員にやる気を起こさせるとともに、いつ解任されるかわからない緊張感ももたらしました。この戸田の人事こそが当時の創価学会に行動への活力を与えていたものだったことは容易に想像できます。


上記の戸田会長の発言を読むと、彼の石田次男氏への信頼がよくわかります。当時、青年部の石田氏を支部長に抜擢することはかなりの大胆な人事だったはずです。今までは男子部の部隊長でしたが、今度からは年長者の上に立って指導をしていかないといけないわけです。
戸田会長の発言は予想される支部内の抵抗や反発を封じる意図、そして同時に彼自身の石田氏への深い信頼を強く感じるものです。
青年部の中にあって戸田の石田への信頼は別格のものであって、これは終生変わることがありませんでした。


昭和28年1月2日の同日、池田大作石田次男の後任として男子部第1部隊長に就任。ここから池田氏龍年光森田一哉、北条浩と同格、またら一歩リードするかたちになりましたが、戸田と石田のような深い師弟の関係にまでは至っていなかったというのが事実に近いと思います。




参考文献:
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年。