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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

Libraさんとのメール対話その6





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は私のブログ記事「学会の本尊定義の矛盾」についてのLibraさんの感想と、その率直なメールでのやりとりを載せてみたいと思います。
今回の対談は結構長めです。
私のような浅学の者にきちんと議論を尽くしてくださるLibraさんの姿勢にもとても感謝しています。



「学会の本尊定義の矛盾」





【Libraさんからのメール】


  気楽非活さん、こんばんは。
  さきほど、貴ブログの記事「学会の本尊定義の矛盾。」を拝読しました。
  気楽非活さんは「理窟からいえば、宗祖が文永十年四月二十五日、佐渡で発表された観心本尊抄の宗教哲理に支えられ、南無妙法蓮華経を中心とする十界常住の相が図顕されているならばたとえ誰が図顕した大曼荼羅であろうとも同質でなければならぬ筈である」(浅井円道「創価学会の出現と問題点」、望月歓厚編『近代日本の法華仏教』(法華経研究Ⅱ)、平楽寺書店、1968年、http://fallibilism.web.fc2.com/099.htmlという点を理解されていないのではないかと危惧いたします。

  たとえば、宮澤賢治は、手帳にじぶんで曼荼羅を書写してますが、これもべつに本尊としてだめだということにはならないとおもいます。もとは国柱会の本尊(田中智学さんの書写)でしょうが(「宮澤賢治の『雨ニモマケズ』②…文字曼荼羅は不可分か?」、http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-210.html)。

  例の板本尊も、たぶん、真筆の曼荼羅をもとに誰かが作ったものだと思いますが、あれじたいはべつに本尊としてだめだということにはならないとおもいます。

  原田さんも、例の板本尊を「『本門の本尊』の一つではある」と認めていますね。「末法衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり、等しく『本門の本尊』」であると認めているのですか

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  しかし、会則改正と共に発表された原田会長の趣旨説明において、信仰の対象は三大秘法すなわち「本門の本尊・題目・戒壇であり、「本門の本尊」について「日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり、等しく『本門の本尊』であります」としている。従来信仰の対象としていた「一閻浮提総与の大御本尊」あるいは「弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊」については、「本門の本尊」の一つではあるが、「大謗法」の他教団の本尊であるから、「受持の対象」とはしないとしている。(資料4)

(宮田幸一「学問的研究と教団の教義 創価学会の場合 日本宗教学会発表」、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/shukyogakkai.html

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   資料4 原田会長趣旨説明 「末法衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり、等しく『本門の本尊』であります。」

「会則の教義事項に言う『御本尊』とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。」

(同上)

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  問題は、原田さんの発言にある「受持の対象としない」ということの意味ですが、これは、物体として、ある時空間に存在している例の板本尊のことについて言っているのだろうと思います。「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は」と言っていますから。

  要するに、概念(クラス)としては「本門の本尊」に属するものとして認められるべき物体(インスタンスであっても、受持の対象としない場合があるということですね。

  論理的な表現で言い換えるなら、【条件A:概念的に「本門の本尊」であると認められるものであること】は、受持の対象としてよいための必要条件であって、十分条件ではないということが言いたいのでしょう。わたしは、個人的には、条件Aは必要十分条件でもよいようにおもいますが、これはまぁ、別に議論すべき問題(サンガの権威の問題)だろうと思います。

  以上のように考えると、原田さんのような説明は、少なくとも論理的には矛盾していないように思います。もちろん、矛盾していないことは、主張が妥当であるための必要条件であって、十分条件ではありません。念のため。



【私からのメール】


ご返信ありがとうございます。

確かにそうなんですよね。つまり宮田説を根本に据えればそういう論理も可能です。また信濃町としてはそのような論理で本尊についての教義改正を試みたということがLibraさんの説明からもわかる気がします。
私がここで問題にしたいのは、それならなぜ日寛書写の本尊なのかという点です。つまり日寛の説に従えば弘安2年戒壇本尊こそ「蓮祖の究竟中の究竟」というべき尊体であり、弘安2年の戒壇本尊を根本にしない本尊は日寛説では「一機一縁の本尊」として退けられることになります。またかつてはそのように教義として提示していたはずです。

それを改正したのですから、日寛説を根本にもつ大石寺法主書写の本尊を礼拝の対象として拝することはやはり矛盾になるのではないでしょうか。
少なくとも日寛説に従うならば、根本とすべきは「弘安2年の戒壇本尊」なのであり、その考えを採用する法主の書写本尊を拝むことはやはり日寛説と異なると思うんですね。

つまり日寛説の超克を企図し、教義を改正した意図には一定の評価も可能かと思いますが、日寛説を乗り越えようとしながら日寛の本尊を拝むことが矛盾ではないのかという点です。

例えば現状においてなぜ日寛本尊を礼拝するのか等、とりあえず一時的な説明でもあってしかるべきかと思いますが、それがないままとりあえず日寛本尊を拝んでいるという状態はやはり一信徒として矛盾していると思いますが、いかがでしょうか。

もちろん「受持の対象とはしない」という表現の意図するところはわかりますし、Libraさんが言われるように極力矛盾がされないように配慮された原田氏の発言かとは思いますが、日寛説を乗り越えようとしつつも日寛本尊を拝むということはやはり信仰としては矛盾すると考えます。

追記:

先のメールの返信が遅くなっています。申し訳ありません。また原稿を手直ししながらいずれ書きたいと考えていますが、もう少しお待ちくださいませ。いつもありがとうございます。




【Libraさんからのメール】


 気楽非活さん、返信ありがとうございます。

 まず事実として、「大石寺法主書写の本尊」は、例の板曼荼羅の書写などではないんですよね。その事実を、現在の創価学会では認めているように思います。

 そういう事実認識に立てば、日寛説を否定することと、「大石寺法主書写の本尊」を本尊として採用することは論理的には矛盾しないように思います

 また、【A:例の板曼荼羅を日寛流に解釈することを否定すること】と【B:理論上は例の板曼荼羅も本尊であると認めること】は論理的には矛盾しないように思います。例の板曼荼羅も、真筆の曼荼羅をもとにして作ったものである以上、相貌としては、他の真筆の曼荼羅と変わりませんから。

 「例えば現状においてなぜ日寛本尊を礼拝するのか等、とりあえず一時的な説明でもあってしかるべきかと思いますが、それがないままとりあえず日寛本尊を拝んでいるという状態はやはり一信徒として矛盾していると思います」とのことですが、わたしには、まず、「日寛本尊」というのがよくわかりません。

 「理窟からいえば、宗祖が文永十年四月二十五日、佐渡で発表された観心本尊抄の宗教哲理に支えられ、南無妙法蓮華経を中心とする十界常住の相が図顕されているならばたとえ誰が図顕した大曼荼羅であろうとも同質でなければならぬ筈」(浅井円道「創価学会の出現と問題点」、望月歓厚編『近代日本の法華仏教』(法華経研究Ⅱ)、平楽寺書店、1968年、http://fallibilism.web.fc2.com/099.html)です。「たとえ誰が図顕した大曼荼羅であろうとも同質」なのあれば、仮に日寛本人が図顕したとしても同質でしょう。そう考えないと、同一理に支えられた同一相貌の御本尊は同質同体でなければならぬという一般的良識にも背き」ます。

 「日寛説を乗り越えようとしつつも日寛本尊を拝むということはやはり信仰としては矛盾すると考えます」とのことですが、これについても、やはり、「日寛本尊」というのがよくわかりません。仮に「大石寺法主書写の本尊」という意味だとすると、以下のような宮田さんのご説明でも矛盾なく説明できているのではないでしょうか。

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次に、創価学会の本尊は、弘安2年の戒壇本尊を書写した本尊なのに、その戒壇本尊を受持しないと決めて、それを書写した本尊を受持するというのは納得できない、という問題に関しては、創価学会の本尊を含む日蓮正宗法主が書写した本尊は、弘安2年の戒壇本尊を書写した本尊であるという議論は、大正時代になって初めて生じた議論であり、しかも日興の書写曼荼羅を詳細に検討すれば、この議論が誤りであるということは明白である。
さらにこれに関連して、出世の本懐と弘安2年の本尊とを結びつけた議論は、日興から日有、左京日教に至るまで見られず、江戸時代の日寛になってようやく見られる議論である。出世の本懐について述べている真蹟御書である『聖人御難事』には弘安2年の本尊に関する言及は全くなく、日蓮教学と日寛教学には差異があることは明白である。創価学会が、日寛教学を含む日蓮正宗教学から離れて、自立した教団として、日蓮教学を独自に究明しようとすることは、日蓮を継承する教団としては当然のことであり、今回の会則改正はその第一歩を宣言したものと見ることができよう

(宮田幸一「本尊認定権について」、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/honzon-nintei.html
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補足です。

 宮田さんの「日蓮正宗法主が書写した本尊は、弘安2年の戒壇本尊を書写した本尊であるという議論は、大正時代になって初めて生じた議論」という主張は言い過ぎなのでしょうが、少なくとも日興の時点ではそのような議論がなかったことが確実なので、その後、どの時点でそのような議論が発生したのだとしても同じことだと思います。




【私からのメール】


気楽非活ブログ管理人です。
本当にていねいな説明ありがとうございます。創価学会自体がLibraさんのような説明の努力をされるならよいなあと改めて感じました。
仰ることよくわかります。なぜ私がそれを矛盾に感じるかといえば、私自身がかつて大変な創価学会日蓮正宗信徒の活動家でしたから、大正時代から言い出したことだとわかりつつも、それを実際に真実として創価学会が言ってきたことへ総括を求める気持ちが強いのでしょうね。
お恥ずかしい話なのですが、私自身「日蓮正宗法主戒壇本尊を写して本尊書写をしている」と教えられてきた身であり、それを素直に信じてきた者です。それならかつて自分が言われてきたことについて「創価学会は嘘を教えてきた」ということに感じてしまうんですね。

もちろん教団も人も間違いは犯すものです。誤りがあるならそれは改めて当然です。しかしそれを改めるなら過去にしてきた過ちを率直に詫びて反省をすることが筋だと思うんです。
事実として「日蓮正宗法主戒壇本尊を書写して本尊書写をしている」という考え方から、そうでない日蓮系教団の曼荼羅を否定してきたことは事実なわけですから、そのことを他宗に対しても創価学会は率直に詫びる責任があると思います。事実、私もそのようにして他宗批判を展開してきたわけですから、私自身もそれを反省すべきだと考えています。

その過去の総括、また他宗の曼荼羅を否定してきた歴史をきちんと総括し、他門流に対して率直に詫びるのであれば、Libraさんの指摘は理解することができるかと思います。

私はLibraさんの説明を否定しているわけでもありません。ただ自分自身がかつての創価学会の活動家として日蓮宗曼荼羅批判してきた過去もあります。そのことについて私は過去を批判されてしかるべきだと考えます。と同時に創価学会もまたそのことをきちんと総括すべきだというのが私の見解です。




【Libraさんからのメール】


 気楽非活さん、こんばんは。

 仕事を終えて帰宅し、今、返信を拝読しました。

 「もちろん教団も人も間違いは犯すものです。誤りがあるならそれは改めて当然です。しかしそれを改めるなら過去にしてきた過ちを率直に詫びて反省をすることが筋だと思うんです」というご意見に賛成です。

 わたしは、以前のメールで、次のように述べました。これは、まさしく、気楽非活さんが今回のメールで述べられたようなことを述べたかったのです。

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 上のようなご主張じたいは全くその通りなのでありますが、これは、浅井円道さんの実にごもっともなご指摘(「創価学会の出現と問題点」、望月歓厚編『近代日本の法華仏教』(法華経研究Ⅱ)、平楽寺書店、1968年、http://fallibilism.web.fc2.com/099.html)を受け入れるのに、実に50年近い歳月を要したということを意味します。これじたいがまず一つの喜劇です。

 まぁ、何年かかったとしても、受け入れたことじたいは評価すべきでありましょう。しかし、そうなりますと、当然、過去に誤った根拠に基づいて日蓮宗と対論し(小樽問答)、勝った勝ったと宣伝したことについてもきちんと謝らないといけません。創価学会はそれを全くしておりません。「人に迷惑をかけたら誠意をもって謝罪する」というのが人としての最低限の倫理です。人としての最低限の倫理すらもちあわせていない人間を社会が宗教家として尊敬するわけもないのですが、そのような人たちが、みずからを「創価学会仏」と自称している。これほどの喜劇が他にありましょうか。

(「Libraさんとのメール対話その2」、http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/05/08/060029
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 無量義経偽経であるという説は定説になっているとわたしも思っていますが、反対説がなかったわけではありません。わたしは、三友健容さんの反対説しか知りませんが(「『無量義経インド撰述説」、宮崎英修先生古稀記念論文集刊行会編『日蓮教團の諸問題―宮崎英修先生古稀記念―』、平楽寺書店、1983年、p. 1119-1145)。

 しかし、三友健容さんが反対説を発表してから10年経過した時点で、菅野博史さんが横超慧日説に賛成の意を表明しているわけです。横超慧日説を覆すような研究は、少なくとも1993年の時点では現れていなかったのだろうという印象をもっています。これは、菅野博史さんの学力を信用しているということにすぎませんが。

 わたしからのメールの内容は、わたしの方から特に「公開しないでください」とお願いしている部分を除いて、いつでもブログで紹介して下さって構いません。「いつでも」というのは、わたしが送信した順番にこだわらなくてもいいという意味です。

 これからもよろしくお願いします。